2009年5月15日

竹橋からの帰り、乗換駅の代々木上原で、ふと駅の近くにある古本屋のことを思った。もう何年も行っていないけれど、まだあの場所は変わらずあるだろうか。帰りを急ぐ必要はない。久しぶりだから道も忘れかけていて、何度か行ったり来たりした末にたどり着いた。前回来たときと同じように、レジの横には犬が居た。何か無償に本が欲しくなって、保坂和志の「カンバセイション・ピース」と「残響」、ドストエフスキーの「貧しき人々」を買った。なぜそうしたのか。きっと、いつもと違う行動を取りたかった。その小さな変化が、今日の自分にはとても大きな力になる。たとえ気のせいでも。


清澄白河のhiromi yoshiiに行ったとき、入口のガラスに気付かないで体ごとぶつかってしまった。正確に言うとドアの横の壁にあたる部分。よそ見(展示の看板を見ていた)とはいえ、こんなことを自分がするとはショックだ。恥ずかしさのあまりに、頭から誰の展示だったか吹っ飛んでしまった。でもその自分の可笑しな出来事は、昨日からの気分を、束の間引き離してくれた。その後見た池田亮司もそうだった。今日、展覧会をいろいろ見たのは、正解だった。






銀座/ギャラリー小柳「内藤礼 color beginning」。清澄白河/シュウゴアーツ「田口和奈 そのものがそれそのものと」、タカ・イシイギャラリー「伊藤存 April Pool」、hiromi yoshii「ヒロミックス 早春、心の輝き」「毛原大樹 都市のエフェクト」、東京都現代美術館「+/- [the infinite between 0 and 1] Ryoji Ikeda」「MOTコレクション MOTで見る夢/MOT,Field of Dreams」。竹橋/東京国立近代美術館「ヴィデオを待ちながら」。


内藤礼の作品を目の前にすると、音がなくなる。時が止まっているわけではないのだけれど、それを忘れるというか、遠ざかる(感覚がする)。それと、絵とそれ以外の作品(今回の展示でいうと糸の作品とか、水が流れている作品)が、すべてどれも独立しているのに散漫になっていない。ただそこにあるだけにも関わらず、動きたくないようなもうしばらく見ていたいという気持ちが出てくる。
田口和奈は佐倉市立美術館の「CHAOSMOS'05」で初めて知ってから、気になっている作家だった。作品ができるまでの行程もどうやらすこし変わっているし、そうしてできた作品はすこし不気味でもあり、同時に目が離せなくもなる。特に女性の作品の方は、たとえば「ひとりの人間のイメージでない」と知らなくとも、明らかな違和感があって、不穏に感じると思う。実際、4年前に初めて作品を観たときがそうだった。今回の作品は画面のシルバーが強くて、焦点が合わしにくかった。描かれている内容に加えて、作品を見る行為自体もすこし遠ざけられるような印象を持った。<br> 伊藤存は本や手帳の表紙になっていて知っているくらいで、実際の作品を見たのは初めてだったかな。テキスタイルの作家というイメージが自分のなかで強かったから、それ以外のもの(丸い紙や、飴細工みたいなものや、シャワーキャップみたいなもの)が会場の所々、ふと目が行くところにあるのが、おもしろかった。こういうこともやるんだ、と。何かひとつ見つけると、「もしや、あそこら辺、あの角を曲がったあたりにも何かあるかな。」と探していた。それが狙いなのか知らないが、自分はそうやって楽しんだ。そういうこともあってか、布の作品は印象が弱かった。内藤礼とはここが違う。
ヒロミックスの絵を初めて見た。最初、(上に書いたような理由で)誰の展覧会か知らないで会場に入り、絵だけを(写真よりもまず絵に目が行ったので)見て、またこういう感じかと思った。でもそのあとに、興味はあまりなくても自分も知っている写真家の描いた絵だと知って、なるほど、と思ってしまった。これは恐い。とどの詰まり、作品だけで判断していないということになってしまうから。こうやって、作品以外のもの(他人がつけた評価や、文章、時にはその作品の解釈)で、観賞する土台や基準があらかじめ存在してしまうというのは、よくない(それが正しいか分からないが、自分はあまりそうなりたくない)。でも実際それは往々にしてある。
池田亮司の展覧会はひさしぶりの衝撃だった。一気に日常から遠ざかった。大きく分ければ、黒い部屋の映像作品と、白い部屋の音の作品に分けられるけれど、自分は断然、黒い映像の部屋がよかった。その最大の要因は、作品のスケールだと思う。空間の仕切りがない、広い場所で、何やら意味不明な線や数字が、あたかも何かを表すかのように次々とリズミカルに現れて、流れて行く。映像自体もわりと好きなほうだったけれど、それだけ、というよりは、あの整列して並んでいる様や、投影された映像の大きさも心地よかった。たとえばあれを小さな画面で観たとしたら、このようなおもしろさは感じなかっただろう。映像の内容と空間の関係が、絶妙だった。あと、音と映像の合わせ方もよかったと思う。音の雰囲気からして、映像と音の先(結末のようなもの)が読めるのだけれど、それでも驚いたし、機械的なリズムに合わせて流れる数字は人間のように見えたり、その遺伝子のようにも、ただの塵のようにも見えたりした。一方の白い部屋は、音を聞くというよりは、脳みそにそのまま信号が送られているようで、ひどく大袈裟な耳鳴りのようにも思えた。この部屋は靴を脱いで見るようになっていたのだけれど、今日は最近気に入っている靴下を履いていたので恥ずかしくなかった。一方、コレクション展は、ここ最近気になっていた何人かの作家を、改めてみる機会となってよかった。不意だったのは、伊藤存の何年か前の作品が出ていたこと。これを見るすこし前に見た最近の作品よりよかった。布の形が変な形だったり四角でないことが、うねうねと行き交う糸を、陽気と言ったら言い過ぎな気がするけれど、楽しそうだな、と思わせた。それと、単純に布と糸の色のバランスが新作より綺麗に見えたということもあるかもしれない。すこし時間があったから、友人が働いているNADiffに寄ったら、彼女は休みだった。商品を一通り眺めてから近代美術館へ。
「ヴィデオを待ちながら」は、最初のコーナーが見づらかった。これは残念だ。あらゆる方向を向いてモニターを置くのも、あまりよくない気がしたけれど、何よりモニター同士の間隔が狭い。展示室最初のコーナーということもあって、やはり人は最初はゆっくりじっくり見る傾向があるようで、そこに充分なスペースとまではいかなくても、人が滞るような配置の仕方はちょっと厳しかった(小さい椅子がひとつやふたつだけ置いてあるのも)。それでも半ばくらいからは、相変わらずその方向は色々だったけれど、スクリーンの作品が出て来たり、人が動ける間隔が出て来て、そこまで気にならなくなった。映像のおもしろさみたいなものを感じたのは、部屋に作られた合わせ鏡と、今まさに2台のカメラで撮影された映像が5秒遅れて流れるモニターを使った作品だった。ちょうど、知らない女の人が自分の前に入っていたので、自分ではない別の人の動きが加わって、余計にそう感じたのかもしれない。それと、たった5秒の時間差。2人は同じ方向に居なかったから、彼女が見ているモニターには主に自分の5秒前の姿が映され、自分が見ているモニターには主に彼女の5秒前の姿が映されていた。時間を共有したという歓びも、少なからずあったと思う。あと何も考えずに単純におもしろかったのは、今で言うところの「ピタゴラスイッチ」みたいな映像。うまくいくかな、とほんの僅かにハラハラしながら、物に与えられた役目が果たされたとき、これも僅かに気持ちが高ぶった。最初にそう思ったのは、糊でべとべとしている板の坂道を、鉄の塊(円柱)が転がっていく場面。糊に抵抗しながらゆっくり坂を下って、見事下までたどり着くと、次の物体へと役目をバトンタッチする。そうだ、「運動を次に繋げる」という役目を、意識の無い「物」が背負っているから、おもしろかったんだ。




久しぶりの長い日記、と感想。