2011年12月31日

ブランドンが死んでしまって、今日で18年。乱暴されたのはクリスマス・イブで、殺されたのはニューイヤー・イブ。世界中が愛だ平和だという 気持ちで溢れていて、おそらく普通の日々より家族や恋人や友人とのつながりを強く感じる日に、ブランドンには悲しみが落ちてきた。ブランドンが生きている ころの記憶(自分の生活の記憶)が自分にはある。そのころ、彼は確かに生きていたのだけれど、自分が彼を知るときにはもう死んでしまっていた。不思議な気 持ち。いくら彼を想っても通じることはないし、話すことはできない。でもそれって、生きている人間に対しても同じようなことを想ったりする。もう一生、 会ったり話すことができないんだなあと思うと、苦しくなる。ブランドンが最後にいた場所を探してやっと見つけることができた。いつか行きたいと思う。


さよなら2011年。




2011年12月21日

忘れては思い出し、思い出してはまた忘れる。その繰り返しの世界に生きている。/和田さんが言っていた駐車場、自分も使ったことがあって、あのツイート見たとき本当に驚いた。今年一番の驚きだったかも知れない。/18年前の人物に恋している。/夜になると、自分の部屋の周りはとても静かになる。冬だと虫の声もしないから、よけいに静けさが際立つ。/雨が降っている。/毎年、ことしも終わるこの時期の時間を4倍くらいに延ばしたい。寒くて幸せを感じるのに一年でもっとも速く時が流れてゆく。/さっきまで、ベランダに出て空を見上げていた。/風が冷たくて、よっぽど部屋の中に戻ろうかと思ったけれど、できなかった。/だんだんと目が暗さに慣れて星が次々と見えるようになったからだ。/星座の位置を忘れかけていた。/それでも北極星を頼りに、沈みかけたオリオン座と、すきなカシオペア座は見つけられた。/体は芯まで冷えていたけれど、空を見ているとき小さな声で歌をうたっていた。/北斗七星が見つけられない。/この曲は冬に、そして今日に合う曲。/作業場の忘年会が終わって、さっき部屋に帰ってきた。/冬の冷たい風が心地よくて、ふたつ手前の駅で降りて歩いて帰ってきた。/東京でも星は見える。でも、空が小さく欠けている。/僕の声を届けたい人は、はるか遠い過去に居る。それを知って、こんなにも切ない。/my space始めたけれど、いまいちまだ慣れない。/twiter活用できていないまま、続けている。/年内にもう一度、蓮沼に行くかどうするか。/年末は都会から人が消えると聞いたけれど、新宿は普段と変わらなかった。世界堂行ったらめちゃくちゃ混んでた。/去年の年越しは絵を描いていた。そんな風に新年を迎えたのは初めてだったけれど、あまりいいものじゃなかったな。/蕎麦好きなのに蕎麦アレルギー。/年越しうどん食べて何年かぶりに紅白見ている。/そろそろ年賀状書くとしよう。/紅白が終わって「ゆく年くる年」に切り替わると、一気に年の瀬を感じる。/さよなら2010年。/蓮沼海岸に生まれて初めて 初日の出を見に行った。日が昇る前、海が青白く輝いていて、あんなに綺麗な海は初めて見たかも知れない。/昨日の夜、自分の部屋に帰ってきた。大掃除してある綺麗な部屋に帰るのは気持ちが良い。/こんな夜中なのに電話を掛けたい。/でもやっぱり掛けない。寝ます。/まだ寝てない。自分の部屋のベランダから見える空はなかなか小さい。でも星は見える。肌を締め付けるような寒さは心地よい。/GAOさん。/元旦の出来事。/帰り道、気温はどれくらいなのだろうか。息が白い。/今日の三日月は一段と綺麗だ。/話したい。/これ見たい。/ジェシー・アイゼンバーグすきだ。神経質そうな役が似合う。「イカとクジラ」もよかった。特にカウンセリングのシーンで表情がだんだん柔らかくなっていくところ。Facebookのこと全く知らないけれど、彼見たさで「ソーシャルネットワーク」見に行こうかな。/JR秋葉原駅と御徒町駅間にできた2k540 AKI-OKA ARTISANに行ってきた。「ものづくり」をテーマとした施設で、32個のショップやカフェなどがある。/ショップは革製品や帽子や彫金などの工房と一緒になったものが 多くて、それを見て回るだけでもおもしろい。自分は帽子を買った。/その帽子屋は「ikhtiart(イフティアート)」というお店で、ひとつひとつ手作りだから温かみがあって、デザインも豊富。サイズも調節してくれる。やっと気に入った帽子を見つけられた。/最近夜歩いていても、そこまで寒いと思わなかったのだけれど、今日は冷えるな。/あまりに寒いから喫茶店に逃げ込んでコーヒーを飲んでいる。隣のテーブルの女性二人が学生時代に受けたいじめの話をずっとしている。女は恐い、とか。/お正月気分抜けた頃だけれど、元旦に蓮沼海岸で見た初日の出の写真。/静かな夜。/20年前に発売されて未開封のままのCDを買った。いま、手元にあるけれど、開けられない。/その間の20年のことを思ったりしている。/たまに、この世界にひとりで居ることを思い出すために、海へと向かう。/写真アップしようとしたら、部屋のパソコンがネットに繋がらない。/アップしようとしたのは波の写真。/さっき、映画「スネーク・アイズ」やってた。ニコラス・ケイジで好きなのは「ザ・ロック」、「フェイス・オフ」、「コン・エアー」だな。/パソコン繋がった!/ちなみに、「コン・エアー」にはスティーブ・ブシェミが出ている。情けない役もピカイチに格好いいけれど、この時のサイコな感じもまたいい。/さっきアップしようとした写真。/部屋に帰ってきた。寒くて、キーボードを打つ指が固まっている。/デロンギ点けてコーヒーで温まる。/夜を駆ける日記/背骨が震える寒さ。/影踏みができそうなほど明るい月。/橋2/いま、電車で水戸に向かっている。朝日が綺麗だなあと思って外を眺めていたら急に窓の外が霞んだ。何だろうと思ったら、雪だった。/川を渡る前と後での景 色があまありにも違う。いま柏を通過する辺りで、外は真っ白だ。/水戸、雪降ってないといいな、。/靴が濡れると自分は元気がなくなる。/Hさんに勧められた、水戸芸術館でやっている「大友良英展」を見に来た。/大友展について色々書いたけれど全部消した。/水戸芸内の展示は、歩み寄って見たいと思う内容ではなかった。古いレコーダーは、作品ではなく古いレコーダーのままだった。/それがどんなに分解されて不自然な動きをしていても。/それよりも、最後の展示室でヘッドフォンとiPodを借りて大友さんが録音した音を聴きながら指定された道順で千波公園西の谷を目指す方が興味深かった。/「僕が知っているのは、あの空が何色でできているか、ということです。」/去年見た展示で特によかったのは、佐倉市立美術館の「CHAOSMOS'09 作家はつぶやく」と、1223現代絵画の「小笠原美還展 ひかりかげ」だった。/CHAOSMOSでの吉田哲也さんの作品は、壊れそうに危ういところぎりぎりで作品となっているという感じがした。このような極限の仕事を続けていて体がもつのだろうか、と思って展示を見ていたら、展示室の最後にあった略歴で吉田さんはもう亡くなっていると知って、妙に納得したのを憶えている。/1223現代絵画での小笠原さんの作品を見たとき、ああ、絵ってやっぱりいいな、と思った。そして、人間の手で描くことの力強さ、絵画にはそれに敵うやり方は無いとさえ思った。特に、入って左側の壁に掛かっていた「ソファと床に当たる窓からの光の絵」は、そこから離れたくなくなるような絵だった。/ちなみに、1223現代絵画での小笠原美還展はまだやっている(2月6日まで)。去年の春にできたばかりのアートスペースで、広尾にある。ギャラリー規模だけれど、入場料500円です。/「みんな眠っているのかな。」/とても現実感のある怖い夢を見て、その中で自分は恐怖に戦き絶望している。でもこれはどうやら夢のようだと、まだ意識がはっきりしないとき、目が覚めるすこし前に気づいたときの安心感は何度同じような経験をしても慣れない。/日記/ある作家さんのサイトで、自分がその人に送ったポストカードが色々な絵やポスターと一緒に部屋の壁に貼られている写真を見て、うれしかった/梅の花がもう咲いていた(この前の大友良英展で行った千波公園西の谷)。/(この前の大友良英展で行った千波公園西の谷)。/雪2(この前の大友良英展で行った千波公園西の谷)。/ある日、滋賀の展示で自分の絵を見たという女の人から、手紙と一緒にCDが2枚届いた。自分の知らないアーティストの曲がほとんどだったのだけれど、その中でいくつか、これは送り主の彼女が弾いているのではないかと思うピアノの曲があった。未だに確かめていないまま、その曲をたまに聴いている。/最新号の『真夜中』まだ本屋に置いてなかった/代わりに『すばる』を立ち読みした/「世界には光がある」/そして自分も彼女に手紙とCDを送った/いい天気だね、こんにちは/でも帰るころには夜になってしまう/いま帰り道。夜になるどころか日付が変わってしまった。/今日買ってきた『真夜中』を読んでいる/川上未映子の「アイスクリーム熱」まで読んだ、すこし眠い/帰りが遅かったからいつもより夜が短くて自分は夜に色々動くからこれでは困るけれど体は眠いと言っているしお風呂に入って休もうか/夜、江ノ島にある展望台に登って、町並みの景色とは反対側に回る。すると、恐ろしいほどの暗闇の海と空。自分の力ではどうすることもできない自然のありのままの姿を目の当たりにして、こんな種類の恐怖もあるのだと知った。本物の黒。登ったのはもう随分と前の話。/さよならの表情、を思い出したりしている/くるりのハローグッバイ。あの、最後のメロディに入る前。/『日々はそれでも輝いて』言葉 谷郁雄、写真 佐内正史(写真)/2人のうち1人にはどうしても会いたい人がいた。だから探しにいった。毎日が初詣のように人でごった返す街に。片方は言った。「こんなに人が居たら見つからないよ。帰ろう。」もう片方は道行く人を目で追いながら言った。「こんなに人が居るんだ。あの人だっているかも知れない。」/今日は静岡に居る。やっとホテルに戻ってきた。/「雪見だいふく」の生チョコストロベリーを買って食べた/いま居るのは静岡の掛川というところ。出発まで時間があるから散歩して、お土産のお茶を買ってきた。今日もいい天気だ。/知らない街を歩くのはすきだ。通学中の学生たちとすれちがって、今日は何を勉強するのだろうなどと考えていた。/今朝のように知らない街を歩いたり通過したりすると、自分が知らないだけで、たくさんの生活の気配が存在していて、それを毎回強く感じる。当たり前 なんだけど。そして、自分の日々の生活や出来事も、ほかの人からしたら同じように、普段はあってないようなものなんだろうと思う。/静岡から帰ってきた/空や海と同じように自分の部屋はやはり落ち着く/帰りにペガサスのブローチを買った/ユニコーンのブローチも買った/おもしろいひとり遊びを思いついた/眠いけれどまだ起きていたい、と言っている/でもやっぱりとてつもなく眠い/あの子も眠ったおやすみなさい/ペガサス/どこからともなく泣きたい気持ち/この気持ちは、消えてはまたやってきて、また消える/いつの頃からそう/はやく朝になればいい/毎日ポストを覗いている/「彼女は嫌われることをひどく恐れている」/「それが彼女にとってたいせつな人であっても」/「そして彼女はそういう自分を嫌う」/自分の見たい景色を描く、それしかできない/「誰かひとり、作品を見てもらいたいと思うひとが居れば、いいんだよ。」Sさんの言葉を、自分は信じてきた。/知っている?電車に乗っていて、つり革も手すりも掴めない(届かない)位置に居るとき、膝を少し曲げて立っていると、わりと大きな揺れにも耐えられる。/今夜は「真実の行方」を見る/「真実の行方」は、ある殺人事件の容疑者の青年が二重人格であることを知り、犯人はその主人格ではなくもう一人の人格であることから無罪を主張し闘う弁護士の話。エドワード・ノートンのデビュー作でその二重人格の青年を演じている。弁護士ベイルはリチャード・ギア。監督はグレゴリー・ホブリット。/ラストシーンで、弁護士ベイルが依頼人の真実を知り裁判所を去るとき、正面口に集まった取材陣を避けて裏口からひとり出て行くところが、彼のその後を暗示しているようでとても切なくなる。人間が逃げる瞬間。これからどれくらいの歳月をかけて彼は立ち直っていかなければならないのだろうか、と。/「ソーシャル・ネットワーク」見に来た/移動して三軒茶屋シネマ「エクスペンダブルズ」見に来た/プロフィール見たら、ジェシー・アイゼンバーグと誕生日が同じだった/毎月1日の「映画の日」に映画見たのも生まれて初めてだった/ユニコーン/自分の足音聞きながら帰ってる/途中でまたアイス買った/冬は、帰り道の途中でアイスが溶けないからいいな/最近まで使っていた財布は、自分が高校に入学するとき、兄だった人が贈ってくれたものだった。黒い革の財布でとても使いやすく気に入っていた。思い出でもあるし愛着があったからずっと使っていたのだけれど、革がくたびれてきてしまったので、これは、10年使ったら買い替えようと決めたのだった。/そして、その財布を使ってちょうど10年が経ったころ、小銭入れの留め金が壊れた。なんだか不思議な気分がした。いよいよお別れだ、と思った。/でもこんなに大切な財布の次に選ぶものは、それと同じくらい気に入ったものでないと嫌で、色々見て回ったのだけれどなかなかいいのが見つからず、結局、小銭入れが全く昨日しなくなったままのその財布を使い続けて、更に1年経ってしまった。/もうこのままでもいいかと思っていたとき、ひょんなことで、やっと気に入ったもの、長く付き合えると思えたものを見つけて、年 が明けてから買い替えた。革製品専門のHERZというお店の財布で、薄くてコンパクトなものにした。カラーが何色かあったのだけれど、自分が選んだのはやっぱり黒だった。/その高校のときにもらった財布は結局11年使った。何かをそれだけ大事に使い続けたことは今までなくて、まだ捨てられずに仕舞ってある。きっとこれからも自分が手に入れるのは黒い革の財布なんだろうと思う。どこかにあの頃の記憶を留めるというか面影を求めて、それと確実に別れることはできない。/でも今日コンビニで新しい財布を取り出したとき、使い始めたころよりも明らかに手に馴染んでいるのが分かって、それが何となく嬉しかった。/いつも真夜中に思い出す/カシオペアの間で眠る/トレーニングや時間に間に合わないからという理由で走っているのではない、人が走っている姿を見るのは好きだ/感情がそうさせて走っている(走り出す)、というような/映画「サムサッカー」や「イカとクジラ」はそういうラストシーンだった/女の子みたいな髪の毛切った/「海炭市叙景」見に来た/痛みも嘆きも虚しさもある静かな映画だった/安らぎはほんのすこしだけしか登場しない/どうしても現実と比べてしまうけれど、その「ほんのすこし」しかないというのは正しいと思う/映画館に入る前に降っていた雨は止んでいた/明日は何をしようと考えていて眠れない/倉庫のような広いところでバンドメンバーがたくさん居る中を追いかけてくるファンたちからチバユウスケに手を引かれて逃げる、という夢を見た/今夜は雨が降る/いま読んでいるのは保坂和志「もうひとつの季節」/いま居るテーブルはタイルでできていて、暖房の効きすぎた中で触れると冷たくて気持ちいい/「もうひとつの季節」読み終わった/その間に何杯紅茶を飲んだだろうか/コーヒーには何も入れないけれど、ミルクティーは甘い方がすきだ/「もっと気の利いたことを言えたらよかった。」/今夜行った店で自分に話し掛けてきた女の人のことを考えている/椅子の上で眠ってしまい、今目が覚めた/髪型、「アルジェント・ソーマ」のタクト・カネシロみたいだ/夜の間をひとり歩いている/向かいのアパートに住む小学生くらいの男の子がベランダで「もっと降れ~」と空に向かって叫んでいる/そろそろ散歩に出る時間だ/外、寒いだろうけれど/ずっと座っているのは身体に良くないから/「歩くというのはなんて楽しいのだろう。」/去年、作業場にウィレム・デフォーが来たとき、自分だけその場に居なかった/悔しい思い出のひとつ/土曜日の電車空いている/向かいに座ったバレエ教室帰りの女の子、ドガの絵がプリントされた鞄を抱えている/部屋が暖まるまで1時間半かかった/歩いてどこまでも行ける陽光/眠りたくない夜/だから散歩している/きっともう閉まっていると思いながらこの前の店まで歩いて行ったら、営業は終わっていたけれど店の中の明かりが点いていて、閉まりかけたシャッターの間から中を覗くとあの女の人が居た。たぶん一人で、パソコンで何か見ていた。/勇気が無かった。/だって、怖いだろう。/それとも、また話をしてくれただろうか。/また帰りにアイスクリームを買って、部屋に戻ってきた/雨が降り出した/雨は上がって曇り空/生きていくのは算数と違う/向かいのアパートの屋根に積もった雪が地面に滑り落ちる度に、その音にびくっとする/雪の降る音がしている/出掛けるときにはしゃばしゃばだった雪が、帰ってくる頃には融けて無くなっていたり道の端に寄せられて土と混じり固まっていた/部屋でミルクティーを飲んでいる/ミルクティー、冬にしか飲まない/やっと体が温まってきた/一年前、東中野徒歩一でやっていた知り合いの個展を最終日に見に行って、そこに居た別の作家さんと知り合いと自分とで話をしていた。9時半頃「もう来ないやろ。」と知り合いが閉めようとしたとき(夜10時までとDMにはあった)、「駆け込みで見に来る人が居るかも知れんよ。」と彼女が止めて いた。/そこから30分また話をしながら10時を回るのを待っていた。結局そのあと誰も来なくて、静かに展覧会は終わり、テープで壁に貼られたたくさんの絵を3人で剥がして机の上に重ねていった。自分なんかが手伝っていいのだろうかと思いながら、絵が破れないようにゆっくり剥がしていったのを憶えている。/しばらくしてそこで初めて会った作家さんの個展を見に行き、彼女の絵がすきになった。夢を描いているような、世界のシステムが存在しないような心地よい絵で、彼女以外の何も混じっていないと感じたからだと思う。絵を買ったのは人生で2度目だった。選んだのは、気づけば視線がそこに戻ってしまう絵。/東中野徒歩一や駅で3人で話した内容は所々しか憶えていないけれど、そのとき流れた時間の気まずさや(自分が勝手に感じているだけだけれど)、知り合いが着ていた服、彼女の不安そうな表情、気温の低さは、今でも思い出せる。/思い出すのは、いつも夜/C.C.レモンのCM好きだな/いつからか自分は名前をつけるのが癖になっていた。たとえば部屋にある植物やよく見かける猫に自分しか知らない名前をつけて呼んでいる。引っ越す前に住んでいたアパートの近くに居た野良猫は「かつぶし」という名前だった。毛の色が、ただの茶色とはすこし違う正に鰹節のような色をしていたから。/朝出掛けるときはかつ武士の住処を遠ていた。大体車の屋根で日向ぼっこしているか紫陽花の根元の寝床で丸まっているか、あとはたまに姿が見えない日もあったな。かつぶしは自分と会うと一度はこちらを見るのだけれど、いつもしばらくすると目を逸らすか閉じるかしてまた彼の時間の中に戻っていった。/その、人間に甘えない感じが好きだった。/「かつぶし」もカシオペアの間で眠る/雲に月明かりの輪ができている/今日、全然寒くなかったな/自分は歩くとき大体ポケットに手を突っ込んで歩いているのだけれど、最近はしばらくそうしていると手が汗ばむようになってきた/冬が終わる/彼女が隣でそれを嘆いている/強い風で流れていく雲の隙間に雪を被った山/今日は部屋で作業だ/「ダニー・ザ・ドッグ」見てた。ジェット・リーが好きで「キス・オブ・ザ・ドラゴン」がたまにとても見たくなるのだけれど、近くのレンタル屋にはVHSしか置いていない。というか、そこの店は映画数が結構多いし古い作品もミニシアターものも沢山あるのに、3分の1くらいは未だにVHSしかない。/とは言え、レンタル料金は安いし夜遅く間で開いているから気に入っている。/CMがすきだから、C.C.レモンを買って帰ってきた/(写真)(写真)/しつこいけれど、CMが好きなC.C.レモン飲みながら作業している/最高に眠いぜ/パソコンの作業は嫌いじゃない、ただ時間が経つのがえらい速く感じる/カシオペアも遠くへ行った、おやすみなさい/(写真)/「過去に不安は残ってない。」/(写真)/ 「太陽にあたまが上がらない。」/「触れる。その運動は、それまでなかったものを瞬時に生まれさせることがある。」/「外套は一着しか持っていませんが、僕はこの紺色が気に入っています。」/hpのプリンターは、「働いてまっせ!」と言わんばかりに作動音が大きい/と、Hさんは言っていた/でもその感じ、嫌いじゃない/いま休憩中にアイス食べていてふと右手を見たら薬指の付け根に小さな傷ができて血が滲んでいた/おそらく紙で切ったのだろう、指でなぞるとかすかな痛み/今日もたしかに冬である/ドーナツ買って帰るよ/女の人が自分の名前を憶えていてくれた/作ってもらったオムライス、2口目までしか味わわずにその後は急いで食べてしまった/「誰かが自分の絵を見ているのを見ているとき、裸でその人の前に立たされているような気持ちになります。」/冬が終わるのと夜が終わるのは、同じ意味を持つ/ジンジャーエールと午前6時/Photoshopとジェット・リーと午前7時/下北アンゼリカのみそパンをムシャムシャ食べている/「もしもし」と「ムシャムシャ」/目が覚めたらあした/リリとサイ/『怒りや悲しみを雪の結晶の形に』/早春の真夜中/今日、作業中にかかっていたJ-waveからSIAM SHADEの「1/3の純情な感情」が流れてきて、なんだか嬉しかったなあ。当時を思い出すからという理由だけでなく、今聴いてもメロディや声が格好いいんだよ。/体が時間に遅れている/田中功起さんと保坂さんのpodcast、第4回と最終回がアップされてから1年以上経つのにまだ聞いていない。/Donovanの「Hurdy Gurdy Man」深夜の作業中によく聴いている/進んで色々聞かないから、洋楽には昔から疎い。外国の音楽で気に入ったものを見つける機会は映画くらいで。持っている洋楽CDの9割は好きな映画のサントラだと気がついた。あとの1割はくるりのラジオで聴いて知ったMotorpsychoだ。Motorpsycho はライブまで見に行った。/さっき(といっても5時間前に)言った「Hurdy Gurdy Man」は映画「ゾディアック」のラストで流れた曲だった。映画も全体の音楽も素晴らしいのだけれど、まさにこの曲はエンディングに申し分無かった。歌うというより話しているような声が静かに響いて、映画を綺麗に締めくくっている。/地震によって、部屋のなかの物が倒れる、足がふらつく、というのを初めて体験した。こんなに怖いものだとは。/津波が陸を這うように流れていく映像を見て、言葉が出ない/こんなに広い範囲の大津波警報、見たことがない/ひとりで居るのが心細い/ここ数日、近所のスーパーに行くと、加工食品とかパンとか飲み物あとは日用品(トイレットペーパーとかマスクとかカイロなど)が棚からなくなってる。入荷しても売り切れてしまうのだろうな。それとは対照的に、野菜や果物の食材は結構棚に積まれたままで、それによって一層に光景の異常さを感じた。/「タナカヒロシのすべて」でタナカヒロシが食べていたのと同じパンを食べている/タナカヒロシのパン、ムシャムシャ/代々木上原駅が人で溢れていて動けないほどだったのでそこから4駅しかないし歩いて帰ろうと思い駅前の地図で大体の目星をつけて歩いていたら見事に迷ってなぜか民芸館の前の道に出た/民藝館。/いまやっと、最後のピンクの動物を確認できた。確かにサイだ。角がある。/「『気をつけて』って、言葉。ホント、実態がない…と思う。具体的にどうすりゃいいのかわからないし、気をつけたからってどうこうなる問題でもない(ことが多い)。だけど、口にしてしまうのは、その人が無事でいて欲しいから。そうした気持ちなのである。想いなのである(`・ω・´)」/月の周りに大きな光の輪ができている/今日の帰り道、酒々井町に13年くらい前まであった夜8時に閉店して毎週水曜定休だったスーパーのことを思い出していた/満月のようで左下が欠けている/人と話していて自分の言ったことに相手が声を出して笑うと嬉しくなる/今を現実に感じないというより、3月11日以前が夢のように感じる/帰り道の途中ハクモクレンが咲いていて夜空に白が際立ち綺麗だった/この花を見るとどこからともなく切ない気持ち/春が近いのだ/親知らずを抜いて、分割された歯を見せられた/日差しがこの上なく綺麗である/「否、それでも世界は美しい」とはある展覧会のタイトルになるはずだったものだが結局違う名前になり多くの人の目に触れる機会はなくなってしまった自分はこの言葉が意味することは正しいと思っていたしかし今日のような日差しを見ていたらそれは人間が居なくなっても尚在り続ける世界のことだと思った/昔のことばかり思い出してしまうな、そんなに甘美なものではないのに/変わっていないのは昼とか夜が繰り返されて太陽と星が出たり雲に隠れたりすることとどちらもその光が綺麗だということくらいかなそれしか思い浮かばないな/終電を送って、話しながら夜通し新宿を散歩した/「朝がきれいだな。」などと言って別れた/朝「英国王のスピーチ」を見た/アカデミー賞のときどっちが取るかみたいなので比べられていた「ソーシャル・ネットワーク」の方が好みだった/「ソーシャル・ネットワーク」には感動するシーンはなかったが、単純に面白かった。テンポもいいし過去と現在が交互に進んでいく構成とか。あの主人公のように的確な皮肉を言える人間て好きだ。その側面だけだと嫌な奴という感じが強いけれど、不格好な人間臭さも残っていて、その描き方が好きだった。/「デヴィッド・フィンチャーだから、夜のシーンが多かったですね。」/言いたかったことや聞きたかったことも言えないまま電話を切られた/陰鬱な精神の群れに足が生えている/キュウリが嫌いな彼女にキュウリの絵本をあげた/「言葉にすることには諦めきれないものがある。」/遺伝子は洗えない/『反復は、発見されるべき新たなカテゴリーなのである』キルケゴール/おととい大きな余震があったとき「ああ、本当に容赦ないんだな。」と思った。自然現象なのだから、もともと容赦も糸瓜もないのだが。/自分の住んでいる地区の投票所は小学校で、校庭の桜が綺麗だった/もしかしたら、と思って期待していたが駄目だった/湿疹が日に日にひどくなっていて一向に治る兆しがない。 特に顔のがひどくて、皮膚の色がところどころ変わってしまっている。/痒くて目が覚めた/首の皮膚もおかしくなってきた/「思い出のかたちも変わってしまった。」/「べつの星」見た/歯医者さんの指を間違えて軽く噛んだ/猫としばらく並走した/「ヒガシマルうどんスープ」のCMすきだな/「ラッセル・クロウとエドワード・ノートンの演技は似ています。」/「すばる」の保坂さんの記事、今日やっと読んだ。3月11日発生直後からの全国の美術館の動きとか、現場の人の声、美術館のこれから、その使命。/気づけば親知らずがなくなったところを舌でなぞっている/不思議な感覚に包まれた、一瞬であったが長く感じ、それを何度も繰り返している/「24時間前にはまだ何も知らなかった。」/昨日今日を忘れたくないと思っても時間が経てばそのかたちは自分の都合のいいように変わってしまうのだろうな今までがそうだったようにだから紙に書いて消えないようにするのだ現実を言葉で切り取りコラージュするのだ/消えない、って言ってくれ/KooKはただの音みたいな声している/ハンニバルは究極のチョキ派だ/ベッドの中でこれを書いている、自分が横になっているところのカーテンの隙間からちょうど月が見える/月、十字架のように四方に光が伸びている/「残す」見た/誰も居ないだろう時間を目指して行ったら、ギャラリーの人以外ほんとうに誰も居らず、絵を一枚ずつゆっくり見られて、綺麗な色(とその組み合わせ)ってこんなにあるのだなあ、などと思った。もし、それが好きかと訊かれたら、自分はどれを選ぶだろうかと考えてみたけれど、なかなか決められなかった。/繰り返し描かれる模様や人の形の絵が並んでいて、それはパターンなのだけれど、色や塗り方が違うからそれぞれ別の絵で、目がくるくる動き回る。そういう展示だった。/「こなごな」見た/安心したら、眠くなった/また体が時間に追いつかない/あんなところに山あったっけと思ったら雲だった/どんなに天気がよくても関係ないことを口にしていても忘れていないし頭から離れない/欲しいものはひとつなのだがなかなか手に入らないもんだな/長いこと横田茂ギャラリーに行っていなくて、アルマンドの絵、また見たいなと思いギャラリーのサイト見てみたら、去年展示していたのか、見逃してすこし悔しいな/ぜんぜん眠くない、午後つらくなると分かっているのに/これから7時間か/7時間たった、帰る/この前、真夜中に梅ヶ丘から恵比寿まで散歩したとき、数年前に映画になった『初恋』という本を借りて、それを今朝から読み始めたのだけど、「それ貸してあげるよ」と言われたから借りたんだっけ、それとも自分から「これ貸してください」って言ったんだっけ、ちょっとだいじなことなのに思い出せないな/「たいして言いたいことがあるわけでもないけれど、毎晩この辺りをうろうろしているよ。」/どういうわけか、ラブソング聴きたいな/「子供の頃の夢は、警察官になることでした。」/すこし良くなったと思っても次の日起きるとがっかりするのである。痒くて痛い。この野郎。/資生堂のクッキーもらったから持って帰るよ/「勝手にしろ」と「放っておけない」が交互にやってくる/時計の針3周した、眠れない/夕暮れ前の東向日駅にも行ったし、深草のホームで写真も撮ったし、遠回りして印西牧の原で下車もした/顔と首の症状がひどくて、なかなか良くならない/気が滅入るの/来週友人の結婚式に出席するというのに、こんな顔では人の前に出たくないというか今でも人に会っていないし会いたくないとも思うのだけれど、治らなかったらこのまま行くしかないね/集中力は出掛けてる/友人の結婚式、披露宴二次会のゲームで東京ディズニーリゾートのペアチケットを当ててしまったよ/「この前あの子が歌っていたのは、なんていう歌なのかな。」/もしもし/忘れると変わらないな/巨人のあばら骨のような雲である/空にある雲のかたちを架空の生き物でもいいから動物(巨人とか大きな魚とか)に連想して、怖がる、というのをよくやる/そうか、過去の記憶を容易に取り戻しやすくなっているのか。たまに、どこに立っている のか分からなくなる/明るくなくても未来とは何なんだ/建築家でもある尾形一郎 尾形優というユニットの写真作品「ナミビア:室内の砂丘」は、かつてダイアモンドラッシュに湧いたアフリカの砂漠に100年前のドイツ人が残した家々の痕跡を撮影したシリーズ。取り残された家屋の中に、長い年月をかけて砂が入り込み、異様な空間となっている。/一世紀前にゴーストタウンになったのにも関わらず、この土地の乾燥した気候から、腐ることなく、ゆっくり消えていく。123/誰かの絵でも写真でも、その人が作ったものが今までに無いような新しいものでなければならないとはあまり思わず、それはどちらかというと自分にはどうでもいいことに近いのだけれど、尾形さんたちの写真を見たとき、これは今までに見たことが無く、そしてそれが実景ということが更にショックだった。/それで、いま尾形さんたちの展示が銀座と青山の2会場でやっている。今週の土曜日まで(あと2日しかない…)。今回展示しているのはこの「ナミビア」シリーズ。普段あまり人に展示とか勧めたりできないのだが、この写真は見て欲しいという気持ちが出てくる。/「ナミビア:室内の砂丘 尾形一郎 尾形優 写真展」ギャラリーせいほう(銀座)/尾形一郎さん尾形優さんのサイト他にもイタリア・中国・日本での写真群もある。メキシコの教会の過剰装飾ともいえる内観を撮影した「ウルトラバロック」も面白いです。/いらんこと言いそうになるのは決まって真夜中/言わずにはいられず。あの歌が入っているアルバムすきでして。/音楽が無くなったら、哀しいな/無くならないけれど/楽器が弾けたらどんなに楽しいだろうな/大学のとき知り合いにギター教わっていて、「Dがうまい。」と言われた。うまいも下手も分からなかったのだけれど、嬉しかったし、楽しかったな。3人でやっていて、ライブするわけでもないのにバンド名を決めることになり、一人が「燃肉祭」にしようと言い出して、その日から燃肉祭で練習してたな。/「人と話していて自分の言ったことに対して相手が声を出して笑ったときにこみ上げてくる気持ちは何と言う名前か。」/「彼女がどんな部屋で暮らしているのか。そ の窓からはどんな景色が見えるのか。」/秋が恋しいな/恋は水色/自分の町では昼の12時になると、町内のスピーカーから「恋は水色」のメロディーが流れてくる。子供のころ、家にこの歌が入ったカセットテープがあって、繰り返し聴いていた。フランス語だし、何を言っているのかは分からないのだけれど、優しい歌声がすきだった。/最近教えてもらったよ、作業中によくアルバム聴いているよ James Blake "Limit To Your love"/「青年心理学」は、大学に入って、一番最初に取ろうと決めた授業だった。毎週楽しみにしていた授業だった。/「ほとけ」は10年前か/ 「yuma、元気かな。」/作業場の片付けである/片付け終わったあとお酒を飲みに行って土砂降りのなか今かえってきた/あしたは七夕か/ボルヘス、しばらく離れたまま/切ったり貼ったりしてCDジャケット作ったもうすぐ送るよ/カシオペア夏の空でも見えるのか/夏はデジャヴが多いな/雲のなかで何か燃えているみたいだ/六本木の空のうえ雲のなかがオレンジいろ/雨降ったら来ないかもね/(写真)(写真)(写真)(写真)/川がひたひた満杯だ/先週の金曜深夜に見た「ミスト」という映画が忘れられない/大きな虫がたくさん出てきた/小さな声で歌うたってるな/朝、洗濯物干すときや、夜、作業から帰るときに感じる/これは秋である/(写真)/来週から作業場が閉まるので10日間やすみだ/休み、北海道に行こうかな/前回行ったのは5年前か。春と秋に行ったんだ。その頃カメラ持っていなくて、インスタントカメラで撮影してたな。それでもたくさん撮ったよ。またたくさん運転したいな。/「すけべ切り取って」と書いてあると思ったら「すべて切り取って」だった/眠れないのでどこか店に入って本でも読もう/今日から新しい本読もうと思って出かけたのに下巻しか持っていなかった上巻は部屋だ/日差しがまだ夏のものだが8月より弱くなっている/深呼吸/明日から作業場が閉まるので10日間休みだ、雨多いけど/そのあと涼しくなるのかな、秋はどこに行ってんだ/イレーネは江口のりこで、ガラテアは桐島かれんがいい/オフィーリアは吹石一恵で、テレサは後藤久美子がいい/デネヴは杏で、ヘレンは土屋アンナでどうだろう/さっき知人とクレイモアの話をしていて、何年か前、この役ならどんな女優さんがいいかと考えていたのを思い出した/連休の初日に広尾の1223現代絵画で「ライアン・ガンダー」展を観た。床に直置きしてあるいくつものカラーパネルを大きなソファーで眺めながら、頭では他のことを考える。/展覧会を観に行っても自分はぼーっとすることができない(ぼーっとと言うか、リラックスと言うか)。作品を見るときはいつも緊張している。身体に変な力が入っている。でも、中には、まるで自分の時間と空間のごとく過ごせるときと場所があって、そういうところに行った日は、身体の調子が良くなる。/横田茂ギャラリーは今のところトップだ。一番奥の窓がある部屋でアルマンドの小さな絵を見たのが忘れられないよ。/それで日曜日は1223現代絵画の帰りに、大学の先輩が働いているギャラリーショップに初めて行った。カタログや雑誌、CDなどを販売するお店と展示空間が混ざっている。そんなに広いわけではないけれど、店内をくるくる回って色々見られておもしろい。/サウンドアートや映像作品の展示を主にしているらしいけれど、その日はドローイングの展示もしていた。作者の名前を忘れたが、ドローイングがふにゃふにゃした線で描かれていて「わかるよ。わかる。」と思った。線はいい。絵の具で塗るよりすきなときがある。/それでその大学の先輩とはたぶん6年ぶりくらいに会った。彼女はあいかわらずキュートで、鈴が転がるような声をしていたな。/で、今日は北海道に行くのだ/天の川/3日間出掛けて帰ってきたら秋が居た/布のうえでゴロゴロしたい/猫になりたいときもある/下高井戸シネマ、「キッズ・オールライト」見逃した、「ビューティフル」は見たい/これは、、風邪の気配だ/風邪はいつも気合いで治してる/北海道の友人が横浜に来ていたので1時間ほど会う。相変わらずアイドルばりに忙しいコだ。/でもたぶん、半年分くらい笑った/写真をプリントしているのだが、300枚近くあり、夜中の作業にして孤独だ。そしてまだまだ終わらない。/歌でも歌ってみるかな/誰かの歌にあったように、飲み物を買いに行く/空港のうえの空はいつも何か燃えているようにオレンジ色/キンモクセイの香りだ、深呼吸しよう/外に出たときに空気が冷たいだけで嬉しい気持ち/「ベニスに死す」が銀座テアトルシネマで始まった。これは観に行かないといけない。ずっと、スクリーンで観たかった。/学芸大学駅から歩いて10分くらいのとこにあるCLASKA Gallery Shop "DO"で「フィリップ・ワイズベッカー Line Work」を見た。ホテルの2階にあるギャラリーで、隣接しているショップも洋服から雑貨から色々置いてあり、見ているだけでも面白い。展示してあるのはドローイング。/この人のドローイングすきだなー。「その線、分かるよ。」とまた思う。遠近法など存在しない。70歳近くになってもあのような絵を真っすぐ描いているなんて素敵だ。落ち着いて生活しているんだろうな、などと思ってしまう。もともと"DO"のショッピングバッグの絵に使われていた作家さんだそうだ。/で、同時開催で六本木のgallery ART UNLIMITEDでも展示している。「フィリップ・ワイズベッカー PARTS AND PIECES」/カラスが1羽、一定のリズムで鳴いている 静かにしてくれ/作業場、1階でコーヒー淹れているときに次にやること思い出して2階に戻るともう忘れているの/「レスラー」/「レスラー」やっと見た。今年一番の映画。/「23区、あとひとつだけ思い出せない。」/「豊島区だ!すっきりした、おやすみなさい。」/寒いところに居るのを想像するというゲーム/あついよ、あつい/「スッカリヨクナイ」/「次の嵐を用意している。」/こんな天気の日は急に走り出したくなる/「サムサッカー」のジャスティンみたいに/パン屋でくじ引きをやっていて、ハズレを引いたらシールをくれた。おばけの頭のちょろりんが気になる。/「われわれはロマンチストだった。」/下高井戸シネマ「ビューティフル」/川崎市アートセンターアルテリオ映像館「海洋天堂」/追いかけられているのに水のなかで走っているように体が重く全然前に進まなくて結局捕まる、という夢/よく見ていた夢があって、それはさっき書いた走る(けれど前になかなか進めない)夢と、空を飛ぶ夢で、しかも街の上空を飛んでいることが多い。東京タワーをかすめるくらいの高さ。空を飛ぶ方の夢は、何回も見ているうちに飛び方のこつが分かってきて、起きている間もそれを想像することがある。/お腹に力を入れると高く昇っていき、息を吐くと急降下する/体が時間に追いつかない/魔女の格好した女の子も見たし、ピカチューの全身タイツ着た外国人も見たし、ヤンキーになった不思議の国のアリスみたいな格好したおじさんも見た/銀座テアトルシネマ「ベニスに死す」/雨の音に混じった雑音/もしもし/眠いけれど、かぼちゃを煮たい/かぼちゃを煮る音とサイダーと午前3:30/(写真)/酒々井は霧がでていた/東京タワーがすきだ/思いがけず近くに行ったのに、今日はカメラを持っていなかった/今日も東京タワーの近くだ、うれしいな/東京タワー、てっぺんは雲のなかに隠れている/悲しくなるくらい薄暗いところでお弁当食べた/冷静さは面白さをときどき邪魔する/よく晴れていたから離陸したあとも富士山がよく見えた/やっぱり街を上から見るのはすきだな、猫もいいけれど鳥にもなりたい/札幌宮の森美術館「ギヨム・ボタジ展」/雪が止みそうだ/シアターキノ「ラビットホール」




2011年12月9日

今となっては何も見えない




2011年11月27日

北海道に行ってきた。目的は、札幌に居る、アイドルのように忙しいコに会うために。この前は、彼女が東京に来たとき、2時間くらいしか一緒に居られなかったのだけれど、それでも半年分は笑ったし楽しかった。今回も笑いすぎて、次の日は顔が筋肉痛になった。普段どれだけ笑っていないのか、という。札幌に居る間のほとんどをモエレ沼公園で過ごして、あとは最近よく聴いている音楽をバスや電車のなかで一緒に聴いたり、部屋のなかでただ話をしていた。今度は彼女が千葉に来られたらいいと思う。連れて行きたい場所が、たくさんある。




2011年11月19日

森山大道さんのトークショーを聞いた。途中、「森山さんも他の人の写真に興味を持つ、惹かれることがあると思うのですが」という話になって、森山さんが「そうですね、それはやっぱり思いますよ。この人僕と同じような体温しているのかな、とかね。」と言っていたのが印象的だった。




2011年11月5日

「窓の向こうに、平原と午後が広がっていた。」
「いや、理解はできるのだが、音楽とおなじで言葉に移せないのだ。」
「眠りは世界から心をそらすことである。」




2011年11月1日





2011年10月28日

生きていくのと算数は違う。




2011年10月27日

「真実はおもしろくある義理はない、とおっしゃりたいのでしょう。わたしは、真実にはその義理はないが、仮定の場合はそうではない、と反論したいですね。」




2011年10月22日

何か言葉にしないと、筋肉とは関係ないところの力が落ちていって、欲望もなくなっていく。




2011年10月21日

ぼくは三年前に住んでいた部屋を思い出します
ぼくは美味しかったコーヒーの味を思い出します
ぼくは9歳のときの部屋のなかを思い出します
ぼくは高校生のころの帰り道を思い出します
ぼくは中学生のころの好きなこのことを思い出します
ぼくは彼の怒鳴り声を思い出します
ぼくは涙の温かさを思い出します
ぼくは自分の冷たさを思い出します
ぼくは林先生を思い出します
ぼくはリリとサイを思い出します
ぼくは一緒に居ることができなかった人のことを思い出します
ぼくは兄になりきれなかった人のことを思い出します
ぼくは彼の家族のことを思い出します
ぼくは優しい女のひとを思い出します
ぼくは肌の柔らかさを思い出します
ぼくは彼女の笑顔を思い出します
ぼくは彼女の声を思い出します
ぼくは風邪のつらさを思い出します
ぼくは部屋のなかで喧嘩していた女の人と男の人を思い出します
ぼくは夜明け前の静けさを思い出します
ぼくは冬の夕方の優しい光を思い出します
ぼくは手首の痛みを思い出します
ぼくは人の醜さを思い出します
ぼくは人の愛おしさを思い出します
ぼくはこの世界の美しさを思い出します
ぼくは忘れたくない
ぼくは忘れたくないから思い出します




2011年10月13日

映画「レスラー」/ダーレン・アロノフスキー監督、ミッキー・ローク主演。


駄目な父親であり駄目な男でもあるけれど、プロレスラーとしては最高に格好よくファンから愛されているランディ・“ザ・ラム”・ロビンソンをミッキー・ロークが演じている。ミッキーは元プロボクサーだが、この映画ではレスラーにしか見えない。試合のシーンは、まるで本物の試合を見ているようで、見ているこちらの体に自然と力が入ってしまう。ランディが体にホチキスを撃たれたり、自ら額をカミソリで切る場面は、リアルで、本当にやってるんじゃないだろうか、と思ってしまった(そんなことないと分かっているのに)。リングの上での強いランディと、リングを下りると寂しい生活を送るランディ、物語はそのふたつを行き来しながら進んでいって、一人のレスラーの人生を描いている。試合をしていてもしていなくても、ランディは常にプロレスラーだった。


ストリッパーのパムや娘のステファニーとの穏やかなシーンが、かえってランディと彼女たちの関係が危ういものだというのを際立たせていて、見ていて切なくなる。でもそこからラストに繋がるのだけれど。ラストはどちらにも捉えられる。生きるのか、死ぬのか。死んだならば、自分にはリングに上がることしかできないと悟ったランディにとっては最高の終わり方なのかもしれない。生きていたならば、またステファニーにもパムにも会いにいって、駄目な父親、駄目な男のままでいると思う。でも自分は、後者であってほしいと、エンドロールを見ながら思った。あのまま、格好よく終わってほしくはない。


この映画は、否が応でもミッキー・ローク自身の俳優人生とかぶってしまうところがある。それがいい所でもあると思う。色々あったけれど、この映画のミッキーは間違いなく最高だった。パム役のマリサ・トメイはいくつになってもチャーミングで、「忘れられない人」で初めて彼女を知ってから、印象が全く変わらない。ストリップ劇場で、ランディと同じような淋しげな表情をしていたシーンはドキッとした。ステファニー役のエヴァン・レイチェル・ウッドは「ウィズ・ユー」以来、彼女が出ている映画を見たのは初めてで、大人になったなー、ドラキュラみたいに肌が白いなーなんて、見ながら思っていた。必要以上に父親を罵倒してしまうところは、どちらの気持ちも分かるようで、胸が苦しくなった。


ずっと気になっていたのに今まで見なかったのは、「これはきっといい映画に決まっている」と感じていたからで、だから、調子が悪いときとか、集中できないときに見たくなかった。今回やっと見てみたら、そんな直感は遥かに飛び越えてしまっていて、久しぶりに、というか今年一番のいい映画を見たな、と思った。




2011年10月12日

(写真を削しました)


(写真を削しました)


(写真を削しました)



2011年10月8日

まじめに努力していくだけだ。これからは、単純に、正直に行動しよう。
知らない事は、知らないと言おう。出来ない事は、出来ないと言おう。
思わせ振りを捨てたならば、人生は、意外にも平坦なところらしい。
磐の上に、小さい家を築こう。
(太宰治『正義と微笑』)

2011年10月5日

ジェシー・アイゼンバーグも誕生日。




2011年10月1日

きらきらした写真を撮る女の子




2011年9月27日

3日間出掛けて帰ってきたら秋が居た




2011年9月18日

子供の頃から暑いのが苦手で、それは、アトピーがひどくなるからなのだけれど、大人になってもそれは変わらず、毎年春から夏はしんどい。楽しいこともたくさんあるけれど、痒さが常に全身にまとわりついてるのはしんどい。腹痛や吐き気よりも痒さの方が、何倍も威力がある。夏の終わりは大好きだ。まだ涼しさが始まったばかりで、冬は一日も始まっていないという。だからもう、ここ最近の残暑のしつこさには辟易している。もういい。




2011年9月17日

皮肉をいう人は苦手だ
嫌いではないが
苦手だ




2011年9月14日

ライセンスの藤原に「パーカー買いに行く約束してたやんな?」と言われる夢を見てから藤原のことを考える。




2011年9月13日

きみーがー ほほーえみかけたー
みがかれたゆかに ぞうかのかげがーうーつる
きみーはー ランチをつくったー
たーべきーれーなーいよー
ほほーえーむーこえがー ぼーくーのーものじゃー
なーくなーるーしゅんかんー
ひーさーしーぶーりにー コーヒーをーたーてようー
みらいのーことをはなーしたいー
いつーでもー あーいあーるーあーしたーをーしーんじーてーいーたいー
コーヒーはさーめてーしまったよー



2011年9月9日

6月の日記にも書いた林先生のfacebook、最後の書き込みが「なんかさびしいよう」だった。そのとき自分は何をしていたのだろう。なんでこんなに胸が苦しくなるんだ。皮も骨も突き破って、体の真ん中を直接掴まれているみたいだ。また会えると思っていたといえるほど意識したものではなくて、先生が亡くなったから、いま、自分はそういう漠然としたものを持っていたのだと気がついた。大学1年と2年のとき、先生の授業を受けていた。興味深くて、自分の学科の授業は結構出ないこともあったのに、「青年心理学」だけは毎週出ていた。先生は何度か自身の大学生時代の話をすることがあり、3年修了の時点で数単位くらいしかとっていなかったことや、年下の学生たちに混じって体育の授業を受けたとき恥ずかしかったけどしだいに打ち解けていったとか、体を動かすのがすきだったとか、そういう話をしていたな。先生の低くてよく通る声や、服装の癖なんかを思い出して、なんとか忘れないように、記憶の端っこをつかんでいる。




2011年9月6日

車で行こう




2011年8月22日

明日もまた、同じ日が来るだろう。幸福は一生、来ないのだ。それは、わかっている。
けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいでしょう。
(太宰治『女生徒』)




2011年8月17日

夏休みが10日間ほどあったので、ずっと千葉に帰っていた。小学校2年生のときにクラスで育てた朝顔、家にもって帰ってから毎年種をとり育てている。だから今年のは20代目か。何年か前からか青い朝顔に混ざって真っ白な朝顔が咲くようになった。まだ暑いけれど、それでも日は確実に短くなっている。暑くなり始めた日から今日までより、今日から涼しくなる日までのほうがきっと短いはず、と言い聞かせて夏が終わるのを待っている。




2011年8月6日

絶望と思えるときでさえ希望は残されている




2011年7月30日

高校のときの美術部の先生とは今でも連絡をとったり会ったりしている。高校の同級生は、ひとり、卒業してからも仲の良かった友達が居たのだが、だんだんと疎遠になってしまいもう会うこともない。高校3年生のとき、自分は一度だけ、授業中に教室を抜け出して、そのまま戻らなかったことがある。授業の内容を理解していたという保険があったのと、昼間、他の学生たちが授業を受けている間、廊下を歩いたり、校庭に出たりするのは、どんな気分なのだろう、そのときの空気はどんな風に感じるのか、知りたかったのだと思う。行動自体は大したことないのだが、思い出のひとつにはなっている。その美術の先生は車に乗っていて(車種を忘れた)、部活の帰りにいつも送ってもらっていた。帰る頃はいつも日が暮れていたので、田舎の夜道を走る車のなかから外を眺めると、そういう景色を知らない人には想像すらできないほどの、闇で、そのなかに、向こうの方の街灯とか家の明かりが、星のように不規則に浮かんでいるように見えて、夜空のなかを走っているようで、それを眺めているのがすきだった。自分もいつか車の免許をとったら、こうやって夜道を運転してみたいと思った。自分が車の運転がすきなのは、子供の頃の記憶と、高校生のその頃の思い出があるからなのだろうな。誰かの歌にもなっているが、育ってきた環境から、切り離されて生きていくことはできない。それは血に、思考の回路に、口調に、身なりに、擦り込まれている。善しとするか悪しとするかは本人次第だが、そこから離れて生きていくことを望んでも、それは絶対にできない。




2011年7月27日

小さな体の女の人が泣いていてなぜ泣いているのか
その行動に心のどのような作用が働いているのかが
自分には分かっていたので彼女を抱きしめるという
映像なのかイメージが目の裏側に現れては、消える




2011年7月19日

「音楽は美しさを表現する方法として一番優れている。」




2011年7月16日

夏はデジャヴが多い




2011年7月12日

自分が住んでいた町では、昼の12時になると町内のスピーカーから「恋は水色」のメロディーが流れる。子供のころ、家にその歌が入ったカセットテープがあって、ステレオでよく聴いていた。フランス語で歌っているので何を言っているのか分からないのだけれど、やさしい歌声が好きだった。




2011年7月9日

この症状が治るなら、右手を差し出す





問題は、右手を差し出してもこの症状が治らないことだ



明日が来るたびに絶望する気持ちが



2011年7月6日

さようならするときには何と言おうか考えていたら涙が出てきた




2011年7月2日

映画「ほとけ」を観たのは十年前か。当時自分は高校生で、新宿のシネマスクエアとうきゅうに観に行った。平べったい劇場で、観やすい環境ではないのだけれど、あの古びた感じが、自分には新鮮だったというか、映画の愉しみみたいなのが分かった気がした時間だった。そこで観たのが「ほとけ」だったから、というのもあるかもしれない。「ほとけ」は、一見、どんな時代背景だか分からないように思えるけれど、あれは紛れもない現代で(分かりやすい例を挙げると、携帯電話が出てくる)、若者が持っているやり場のない感情に焦点を当てている。それが観ていて苦しかった。同時に美しいのだけれど。自分より少し先を生きているその映画の中の若者たちに、漠然と自分のすぐ先の未来を被らせて観たりもしていた。あのライのようにただ一人の女を心の底から欲することがこの先あるのだろうか、シバのように怒りを暴力に任せて文字通り人を傷つけることがあるだろうか、ユマのように絶望を知りながらも美しくあることができるだろうか。人に映画をすすめるときに「ほとけ」を挙げることはないが、忘れられない、大切な映画だった。




2011年6月29日

「君のような絵は引き際が肝心だからな。」

相変わらず眠れない。薬を飲み始め、しばらく続けると、それがないと不安になる。睡眠とはどういうものだったか。何でもいいから、ぐっすり、泥のように眠りたい。人の気配がしない夜は長い。とても長く、暗い。




2011年6月23日

林先生の「青年心理学」は、大学に入って、一番最初に取ろうと決めた授業だった。毎週楽しみにしていた。先月亡くなっていたとは知らなかった。年が若いからとか、いい人なのにとか、そういうのもあるけれど、自分の人生に関わってくれた人の命が無くなるというのは、どうしようもなくつらい。頻繁に会ったり、話をしたりしていたわけではないのに、胸が苦しい。死んでしまったら、もうその人と何もできない。生きているというのは、それだけでいろんな希望を孕んでいるんだな、とこれを書きながら思っている。




2011年6月21日

皮膚炎がひどくて、顔を見るのが嫌です。自分の顔を知っている人は、会ったらびっくりするでしょう。作業場とアパートの行き来だけです。誰にも会いたくないです。通りすがりの人にすら、顔を見られるのが嫌です。一生このままだったらと考えると、気持ちが暗くどこまでも沈んでゆきます。ますます未来は、どこかに行ってしまう。自分で自分をつかまえて引きずり上げるしかないのですが、それもこう長い期間だと、疲れてきました。




2011年6月20日

「まあ、またいつか会えるでしょう。」と思う人と、「もうきっと一生会うことはないだろう。」と思う人が居て、それはどちらも負の感情からではなく、自分に備わっている力ではどうにもできないことがあるのだろうという意味のもので、それがたまに哀しくなる。一日に何度も色々なことを思い出し、心は未来に向いておらず、そろそろそういうのはやめた方がいいと考えたりもするけれど、本当のところは、そんなことちっとも思っていなくて、ずっと同じままでいいと思ったりもしている。それを言う必要はないのだけれど、ではなぜここに書いているのかというと眠れないからで、みんなが起きている間も寝ている間も自分は起きていて、そろそろ疲れた。疲れたのにどうして眠れないんだ。真夜中に苦しくても、「僕のくだらない話を聞いておくれ。」と言える相手も居ないし猫も居ない。車があれば、どこにでも行けるのにね。とにかく眠りたい。




2011年6月18日

また夜通し散歩した。言いたいことの半分も言えない。




2011年6月17日

人と話していて、自分の言ったことに対して相手が声を出して笑うと嬉しくなる。




2011年6月15日

「便りを待ち続けてくたびれたよ。」




2011年6月11日

時間は流れて、忘れたり思い出したりを繰り返して生きている。




2011年5月11日

何も言えなくなった




2011年4月11日

アトピーがひどくなってきた




2011年3月9日

体が時間に遅れている。




2011年3月1日

3月1日である。この数字の並び方はすきだ。ただ、春がもうすぐ来る。それは淋しい。春も夏も秋もすきだけれど、いっそ残りの日々が冬だけでもいいといつも思う。しかしそれはそれで、退屈な日々に変わってしまうのだろう。ならばこのままでいい。冬が終わるのと夜が終わるのは、同じ意味を持つ。



2週間ぶりに人と話して、緊張した。会うと決めていた人が居る店に向かう途中、「胸がドキドキしている」とはこういう感覚だ、と思い出した。いつも、人が自分の絵を見ているのを見ているとき、裸でその人の前に立たされているような気持ちになる。学生の頃に描いた課題の絵ではそんなことなかった。



帰り道、冷たい雨が降っていて、傘を持つ右手の感覚が無くなりながら、歩いた。




2011年2月28日

日記1
女の子みたいな髪の毛を切って、「アルジェント・ソーマ」のタクト・カネシロみたいな髪型になっている。



日記2
ここには書けないこともある。



日記3
体と心は繋がっているから、と嵐の日に待ち合わせた店でHさんは言っていた。



日記4
過去の自分を思い出して、現在のそれとのズレにたまらなく苦しくなるときがある。



日記5
2年を無駄にした気がして、自分に罵声を浴びせる。




2011年2月19日

「自分の性別が分からない。」




2011年2月14日

自分よりはるか年上の大人が泣きそうになるのを見ていた




2011年2月9日

昨日寄った店で自分に話し掛けてきた女の人のことを一日経った今でも考えている




2011年2月8日

「いつか会う日が来て、彼女が自分を見たら、がっかりするかもしれない。」と思うと胸が苦しくなる。




2011年2月1日

今日は映画の日ということで「ソーシャル・ネットワーク」と「エクスペンダブルズ」を見に行った。


「ソーシャル・ネットワーク」は、Facebookのことをよく知らないけれど、監督がデヴィッド・フィンチャー、主演がジェシー・アイゼンバーグということで前から気になっていた。実話を元にフィクションを含んだこの映画を見ているとマーク・ザッカーバーグは頭のキレるちょっと嫌なやつという場面が結構出てくるけれど、それだけじゃない大学生(当時)の男らしい部分がたくさんあって、そこに人間味を感じるように描かれていた。彼女に別れを告げられた時の動揺のしかたや弁護士の女性への食事の誘いかた、自分の友人に対する同僚の態度に不快感を表したり、最後のシーンで別れた彼女にフレンドリクエストを送るところなんかは、健全な青年という感じだった。目指しているものや仕事に対する考え方は似ていたけれど、「昔の女のことなんか思い出さない」というショーン・パーカーとは違いがあって、だから、頭がぶっ飛んだ最高に賢いオタクにもただのプレイボーイにもなりきらない、不格好な人間として描かれていて、そこがよかった。


主演のジェシー・アイゼンバーグはこの役によく合っていたと思う。早口なのはこの映画だけではなくて、「イカとクジラ」のときもそうだった(というか演技していないときも早口なのだろうと思う)。あの話し方と声の高さ、それと相手に嫌みを言う時の無表情な感じが映画の面白みを増していたと思う。


それと、この映画を見て改めて気づいたのだけれど、冒頭の、マークが恋人にフラれて大学の寮まで走って帰るシーンを見ながら、自分は、人がトレーニングや時間に間に合わないからという理由で走っているのではない、人が走っている姿を見るのが好きだと思った。感情がそうさせて走っている(走り出す)、というような。映画でも、登場人物が不意に走り出す場面に自分は見入る。たとえば、今思いつくのは、「サムサッカー」や、さっき挙げた「イカとクジラ」のラストシーン。自分でもたまにそういうときがあって、他の人はどうかしらないけれど、そのとき芽生えた感情(歓びや哀しみ)によって、「時間に追いつきたい」とか「飛べない代わりに」走りたくなる。


「エクスペンダブルズ」は三軒茶屋シネマで見た。この映画館は他の館が上映終了した作品を、遅れて上映する。だからか料金も安いし、何より劇場の古びた雰囲気がいい。座席はギシギシいって腰が痛くなるけれど高低差があって前の人の頭が気にならないし、売店もちゃんとある。この映画は、自分の好きなアクション俳優(自分のヒーロー)が勢揃いしているので、たとえ内容が面白くなくても構わないから、絶対スクリーンで見ようと決めていた。スタローン、シュワルツェネッガー、ジェット・リー、ドルフ・ラングレン、ブルース・ウィリス、ジェイソン・ステイサム、ミッキー・ローク。カットを見ていると、もしかしたら合成で共演させているのかもしれないと思うようなシーンが結構あるのだけれど(たとえばブルース・ウィリスとスタローンとシュワルツェネッガーの教会でのシーン)、違うかもしれないし、もしそうであってもいいと思えるくらいのキャスティングだから自分は満足だった。物語は、劇的な展開があるというわけではない、男たちがある島の平和を取り戻すために闘うというもので単純明快なストーリーだった。駄目役でもドルフ・ラングレンの渋さがよかったなあ。ミッキー・ロークも終始手が震えていたけれど、いい役だった。とにかく、男気が溢れすぎているような映画で、熱くなる。ああいう男たちのようになりたい。




2011年1月31日

自分にできることは誰かをしあわせにすることではない、と子供の頃から思っている
それは絶望というのだろうか
今まで生きてきた中で、何ヶ所か、記憶の無い部分があり、それを思い出すことができない
家の中の記憶
いつからか、忘れる力を身につけた
忘れることは生きること、と彼女が言っていた
なぜこんなことを書いているのか分からない




2011年1月30日

18年前の人物に恋している




2011年1月26日





2011年1月23日

「ある作家さんのサイトで、自分がその人に送ったポストカードが色々な絵やポスターと一緒に部屋の壁に貼られている写真を見て、うれしかった。」




2011年1月22日

彼女は泣かない。




2011年1月16日

水戸/水戸芸術館現代美術センター「大友良英 アンサンブルズ2010―共振」展。


最終日になってしまったけれど、Hさんに勧められた大友展を見てきた。天気予報で雪が降るとのことだったので、車で行くことを断念して電車で向かった。電車のドアが開くたびに冷たい風が入ってきて、水戸は晴れていることを願い、車窓から外を眺めていた。Hさんが話していた散歩(会場最後でヘッドフォンとiPodを借りて水戸の街の散歩に出るというもの)にすこし期待しながら。


水戸駅に着いてみると雪は止んでいたものの結構積もっていて、この冬経験したことがないくらいの寒さだった。それでもなんとか開館と同時くらいに着いて、すこし体を温めてから展示を見た。水戸芸内の展示は、受け入れるまでに時間がかかってしまった。それぞれの展示室内には古いレコードプレーヤーや壊れかけたピアノなどの音を発生するものが不自然に並んでいて、すこし驚いたのは、見に来ていた人たちがそれぞれのプレーヤー(おそらくその人自身が惹かれるもの)の前で、じっと、瞑想するかのごとく、座り込んでいたことだった。別に、それが嫌いだとか、苦手とするタイプの作品ではないのだけれど、自分にはなぜか、そうするだけの余裕がなかった。


館内での展示を後にして散歩に出掛けた。これは、最後の展示室でヘッドフォンとiPodを借りて、そこから流れる音を聴きながら指定された道順で千波公園西の谷を目指すというもの。その音とは、大友さんが同じ道順で歩いて録音した街の雑音(車の走る音や通り過ぎるおばちゃんの声など)や歩きながら弾いたギターの音色だったりする。自分が行ったのはお昼どきで、寒いながらも日差しがとても気持ちよく、大友さんが録音した音を聴きながら、雪がまだ融けずにカチカチのままの上を慎重に歩きながら、公園を目指した。まるで、大友さんの時間を追体験しているような感覚があったのだけれど、その感覚は、自分が今歩いていることや、それに伴う街の様子に掻き消されることもあり、でもまた不意に大友さんの気配が蘇ってきたりと、なんとも言えぬ不思議な感じだった。


公園に着いてみると、カマクラを作っている親子のほかには誰もおらず、ひとり、雪が積もった中をゆっくり歩いた。Hさんに言われたように夕暮れ時の叙情のなかで体験したら、また違うものがあったように思え、それがすこし残念だったのだけれど、すこんと抜けた青空も最高に気持ちよく、思いもかけぬ雪景色に体験することができて、それはそれでよかったかと今になって思う。


借りたものを返しに公園を出ようとするとき、あやうく触らずに帰るところだった。雪を。雪は冷たく、さらさらとしていて、食べようかと思ったけれど、それはやめておいた。












2011年1月13日

去年最後の日記は海の話で、今年最初の日記も海の話だった。今日も海の話。自分は泳げないので(水に浮くこともできない)、夏の海に行くことはまずないのだけれど、大学に入った頃から、海水浴客の居ない時期にはよく行くようになった。毎回、ただ海を眺めて、帰りに近くの喫茶店に寄るだけのコース。実家から海までは車で40分くらいかかるので、子供の頃は連れて行ってもらわないといけなかったけれど、大人になった今は自分ひとりで、思いつきで行くことができる。大人になってできることもある。映画もひとりで見られる。明日、新幹線の切符をとって、知らない街に行くことだって不可能じゃない。
映画「ロスト・イン・トランスレーション」の中の、日本に滞在しているアメリカ人の主人公が、ホテルでひとり何もすることが無いから京都にふらっと観光に行くシーンがすきだ。おそらく彼女が感じているのは笑えるような楽しさではないのだけれど、しみじみ静かにその時間の流れを体験している、というのが伝わってきて、自分にも似たような経験があるから、それを思い出させもしてくれる。


今年はふらっと、どこかに行ってみたい。



2011年1月1日

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。今年も日記のようなものを書いたり、撮った写真を載せたりします。

元旦、蓮沼海岸に生まれて初めて初日の出を見に行った。日の出の時刻を国立天文台のサイトで調べて、それに合わせて車で向かった。初めてのことだから、渋滞するのかとか、海岸にどれくらいの人が集まっているのかとか見当も付かないまま、思いつきで行ったのだけれど、こんなにうまくいくことがあるのかというくらいの、一日の、一年の始まりだった。道は混んでいなくて、走り抜ける景色の変わりようを目の当たりにできた。星がだんだん消えて行く東の空が、群青色からオレンジに変わる間の紫はとても綺麗で、地面にある景色は黒一色のシルエットでまるで夢の中を駆け抜けているようだった。海に着いてみると、人はたくさん居たけれど、みんななぜだか横に並んで静かにしていた。自分が驚いたのは、海の色。あのような海は今まで見たことがない。日が昇る前、波が青白く輝いていて、涙がでそうになった。たかが海の色と思うかもしれないけれど、感激したんだ。久しぶりの感情だった。あんなに綺麗な海は、もしかしたら初めて見たかもしれない。いよいよ昇った太陽の光は眩しくて、朝日と夕日の違いが分かった。
周りにいる人たちも思い思いにそれを眺めていたのだと思う。計り知れない時間の流れの中で太陽は何も変わらず毎日あり続けるのに、今日という日の朝は一年のうちで最も待ちこがれられる日なのだろう。恵まれた天気と時間と場所で一年の始まりを迎えられたことが、まだ夢のようだ。海で朝を過ごすこと自体初めての経験だったのだけれど、とても清々しい気持ちだった。