根性見せろ、俺。
2008年9月13日
今日は2人展の6日目。
明日でこの展示はおわりです。アトリエ日曜日で描いているとき、最後の最後まで手が掛かった絵が、展示してある6点のなかでももっとも思い入れがあります。それは観る方にとっては、あまり関係のないことのように思われるかも知れませんが、自分は、単純に嬉しいです。何がというと、その絵が展示をしたことで、ああいい絵を描いたなあ、と気づいたことが。この絵はたぶん、もう2度と見ることはないでしょう。すこし淋しく感じます。よく、自分の作品を子供のように例える人が居ますね。でも自分は、どちらかというと、友達のように感じます。自分を分かってくれている、黙ってただそばに居る大切な友人に思えます。そして、絵が人の手に渡っていくときは、その友人が転校していくような気分です。絶対に会えなくなるとは言い切れないけれど、明確な別れを感じるというか。…ちょっと分かりづらいですかね。でもこういう風に例えるのが、自分ではいちばんしっくりくるのです。
明日は会場に居ます。最終日なのでクローズは16時となります。
明日でこの展示はおわりです。アトリエ日曜日で描いているとき、最後の最後まで手が掛かった絵が、展示してある6点のなかでももっとも思い入れがあります。それは観る方にとっては、あまり関係のないことのように思われるかも知れませんが、自分は、単純に嬉しいです。何がというと、その絵が展示をしたことで、ああいい絵を描いたなあ、と気づいたことが。この絵はたぶん、もう2度と見ることはないでしょう。すこし淋しく感じます。よく、自分の作品を子供のように例える人が居ますね。でも自分は、どちらかというと、友達のように感じます。自分を分かってくれている、黙ってただそばに居る大切な友人に思えます。そして、絵が人の手に渡っていくときは、その友人が転校していくような気分です。絶対に会えなくなるとは言い切れないけれど、明確な別れを感じるというか。…ちょっと分かりづらいですかね。でもこういう風に例えるのが、自分ではいちばんしっくりくるのです。
明日は会場に居ます。最終日なのでクローズは16時となります。
2008年9月12日
2008年9月10日
2008年9月9日
2008年9月8日
今日は2人展の1日目。
夕方まであまり人が来ず、連日の寝不足で眠気に襲われ、半分意識が飛んでいました。それでも夕方からは次々と、友人や知人や先生方がいらして、意識もしゃっきり、後半はあっという間でした。元気のいいおじさん(知らない御方)とも、結構長話をしました。自分は、ギャラリーなどで展覧会を見るとき、会場に誰も居ないといいなあ、と思いながらドアを開けます。なんというか、別に作家さんがいらっしゃるのはいいのですが、その方の考えとかメッセージとかを語られてしまうと、作品のおもしろさが分からなくなるというか。自分で判断できなくなってしまいます。そういうものが、作家が作品をつくる上でエネルギーになっているのは確かだと思いますけれど、見る方としては(少なくとも自分は)、作品を観るときには別に知りたくありません。そのため、自分が展覧会をやるときに会場に居るべきかどうかは悩みます。だから普段はオフィスに居て、しばらくすると顔を出してみるという感じで過ごしています。見に来た人は、何か知りたいことがあれば話し掛けられるでしょうし(できない方も居るでしょうが)、興味がなければすぐ立ち去っていくでしょう。それでいいと思います。
展覧会では、自分も観客ですし、何か明確に分かっていたら、絵は描いていないかも知れません。分からないから描いている、とも言えますが、ところがどっこい、それすら分かりません。でも、そういう中でも自分の絵が現れてくるのならば、今はそれでいいのではないか、という気がします。どこの世界もそうでしょうが、自由になるはずの絵は、いろんな余計な思惑やシステムに埋もれがちです。でもわたくしは、自分の大切なひとやものと同じように、自分の絵も、そういうどうでもいいことから守っていきたいです。これは相当大変でしょうけれど。
夕方まであまり人が来ず、連日の寝不足で眠気に襲われ、半分意識が飛んでいました。それでも夕方からは次々と、友人や知人や先生方がいらして、意識もしゃっきり、後半はあっという間でした。元気のいいおじさん(知らない御方)とも、結構長話をしました。自分は、ギャラリーなどで展覧会を見るとき、会場に誰も居ないといいなあ、と思いながらドアを開けます。なんというか、別に作家さんがいらっしゃるのはいいのですが、その方の考えとかメッセージとかを語られてしまうと、作品のおもしろさが分からなくなるというか。自分で判断できなくなってしまいます。そういうものが、作家が作品をつくる上でエネルギーになっているのは確かだと思いますけれど、見る方としては(少なくとも自分は)、作品を観るときには別に知りたくありません。そのため、自分が展覧会をやるときに会場に居るべきかどうかは悩みます。だから普段はオフィスに居て、しばらくすると顔を出してみるという感じで過ごしています。見に来た人は、何か知りたいことがあれば話し掛けられるでしょうし(できない方も居るでしょうが)、興味がなければすぐ立ち去っていくでしょう。それでいいと思います。
展覧会では、自分も観客ですし、何か明確に分かっていたら、絵は描いていないかも知れません。分からないから描いている、とも言えますが、ところがどっこい、それすら分かりません。でも、そういう中でも自分の絵が現れてくるのならば、今はそれでいいのではないか、という気がします。どこの世界もそうでしょうが、自由になるはずの絵は、いろんな余計な思惑やシステムに埋もれがちです。でもわたくしは、自分の大切なひとやものと同じように、自分の絵も、そういうどうでもいいことから守っていきたいです。これは相当大変でしょうけれど。
2008年9月7日
2008年9月1日
2008年8月30日
2008年8月29日
2008年8月28日
2008年7月16日
2008年7月14日
2008年7月7日
2008年6月25日
2008年6月19日
きのうのことを、今日書く。人からチケットをもらったので、国立代々木競技場に「CHANEL MOBILE ART」を観に行った。観覧は無料だけれど、チケットを取らないと観られないシステムで、なおかつ、好きな時間に行くのではなく、入場の時間が決められている。自分は17時だった。ネットで調べて、会場の外観などは知っていたけれど、なんとなくものものしい雰囲気だった。白が基調とされていて、自分は好きな感じだ。あちらこちらに、全身を黒の制服で統一したスタッフが居た。何か護衛している人みたいに見える。ひとりぽつんと、入場前の待ち合い場に居る間、即席に作られ何れは分解されるその建物のなかに身を置いていると、なんとなく、去年ドイツに観に行ったドクメンタを思い出した。規模も内容も違うけれど、すこし懐かしい感じと、あとは、現実離れしたその雰囲気が夢のようで心地いいものがあった。その間も、あちらこちらで真っ黒な格好をしたスタッフがうろうろして、無線で何かぶつぶつ言っている。さて、内容はと言うと、束芋の映像(インスタレーション)と水たまりの反射のインスタレーションが、印象に残っているかな。どちらも、穴や、直接的には見えない映像を観ているあいだは、その中に自分が居たし、時間を忘れそうにもなった。ただもっと強い印象を持ったのは、この展覧会のシステムかな。チケットを事前に予約して取らなければ観られないというのも、最近ではまだまだ珍しいやり方だと思うし、その上、会場に入ったら自由に観られるというわけでもないー会場に入って渡されるMP3プレイヤーを、スタッフが起動すること、なおかつ、音声に従って観なければならないーということが、今まで自分が体験したことのないものだった。こういうの、嫌いじゃない。それと、そのMP3プレイヤーを操作するのはスタッフひとりなので、観客が同時に作品を観始めるということがない。そうやってできたタイムラグが、ひとりの時間をより強調していた気がする。観ている間、そこまで他の人が気にならなかった。最後に、クロークでカタログをもらった。無料なのに、これが大きくて、なぜか2種類ある。これが世界のブランドのオオきさなのかなーなどと思った。会場から出ると、薄ら青みがかった空と、吹く風が気持ちよく、競技場のまわりは高い建物がないので、またドクメンタを思い出した。何枚か写真を撮って、あとにした。駅に向かう途中、外国の歌手のコンサートがあるらしく、たくさんの人。自分は何も見ず、ただ歩いた。
それから、先週開通した副都心線に乗って、新宿三丁目へ。岸田さんも言っていたけれど、まだ新しい路線なので、ホームの空気が新鮮だった(といっても、体には良くないだろうけれど)。写真を撮ろうとしたけれど、やめた。
新宿へ行ったのは、映画「幻影師アイゼンハイム」を観るため。最近いろいろ我慢していたので、映画を観たくなったのだ。内容は期待はずれで、よたよたした展開の上に結末の説得力がない。そういうことに重点を置いていないような映画ならともかく、この映画はちゃんと物語を描こうとしているので、腑に落ちない感じだった。
帰りは、小田急線でたてつづきに人身事故などが起こって、1時間以上も足止めされた。人混みが嫌いなので、自分にとってこれほどの苦痛はなかなかない。
それから、先週開通した副都心線に乗って、新宿三丁目へ。岸田さんも言っていたけれど、まだ新しい路線なので、ホームの空気が新鮮だった(といっても、体には良くないだろうけれど)。写真を撮ろうとしたけれど、やめた。
新宿へ行ったのは、映画「幻影師アイゼンハイム」を観るため。最近いろいろ我慢していたので、映画を観たくなったのだ。内容は期待はずれで、よたよたした展開の上に結末の説得力がない。そういうことに重点を置いていないような映画ならともかく、この映画はちゃんと物語を描こうとしているので、腑に落ちない感じだった。
帰りは、小田急線でたてつづきに人身事故などが起こって、1時間以上も足止めされた。人混みが嫌いなので、自分にとってこれほどの苦痛はなかなかない。
2008年6月16日
2008年6月14日
2008年6月13日
最近、自分独自のやり方を押しつけるような人が多いなあと感じます。それしか知らないことは悪いことではありません。
ただ、それ以外のいくつもの選択肢があって、それぞれを選んでいる人が居るということを、なぜ想像できないのでしょうか。
最近、愚痴っぽいなあ。こういうの、いけませんねえ。読んでいても楽しくない(…もともとあまり楽しくないかな)!
…いや、べつに人のために書いているわけではないのだけれど。でも気をつけないと…。
今日は、明日から仕事始めの友人や、この日記を読んで大学の知人が来てくれました。
グループ展は明日が最終日です。自分は1日ギャラリーに居ます。お時間ありましたら、お越しくださるとうれしいです。
ただ、それ以外のいくつもの選択肢があって、それぞれを選んでいる人が居るということを、なぜ想像できないのでしょうか。
最近、愚痴っぽいなあ。こういうの、いけませんねえ。読んでいても楽しくない(…もともとあまり楽しくないかな)!
…いや、べつに人のために書いているわけではないのだけれど。でも気をつけないと…。
今日は、明日から仕事始めの友人や、この日記を読んで大学の知人が来てくれました。
グループ展は明日が最終日です。自分は1日ギャラリーに居ます。お時間ありましたら、お越しくださるとうれしいです。
2008年6月10日
2008年6月7日
2008年6月6日
2008年6月4日
どうも話して表現することが苦手なようです。言ったそばから、言いたいことから遠ざかってしまいます。唯一、言葉を使ってなんとかうまくいくのは、紙に書くことのようです。自分はいつもクロッキーブック(大学生のときから同じ種類)を持ち歩いていますが、絵よりも言葉を書く方が多いときがあります。その白い紙のなかに、言葉を選んで、改行するところも選んで、字の大きさや字の線の長さを慎重に選びます。そうして出来上がったものを見ると、やはりこれは絵かも知れないと思ったりもします。紙の白と、黒い字の線の形。書いている内容は、ふと思ったことや、誰かが言ったことや、何かが起こってそれについてだったりします。ちなみに、今クロッキーブックを開いて見てみたら、いちばん最近のものが「集中的に一定期間働いて、そのあと何もしない。自分はそういう感じやな。」でした。これは人が言った言葉ですが(紙に書いているのだから、ここに書いてもどうしようもないのですけれど…)。
さてさて、あさって6日からグループ展が始まります。ギャラリーの人の話では、人はいつもあまり来ないとのことでした(!)。だから、みなさん、是非来てみてください。人があまり来ないのならば、きっと、ゆっくりできます。
さてさて、あさって6日からグループ展が始まります。ギャラリーの人の話では、人はいつもあまり来ないとのことでした(!)。だから、みなさん、是非来てみてください。人があまり来ないのならば、きっと、ゆっくりできます。
2008年6月1日
6月になりました。6日(金)からグループ展が始まります。やはりこういう機会があると、多くの人に観てもらいたいという気持ちが出てきます。
ここからは独り言ですが。自分の話を聞いてくれる、大切な人が居ます。自分の何倍も生きていて、長い間絵を描き続けています。自分はその人の足下にも及びませんが、ふたりは似ているところがあると思います。心細いのは間違いなんかじゃない。絵を描いていると、あらゆるものから自由になる瞬間があって、絵を展示すると、そうではなくなることがよく分かります。2年くらい前、その意味が分かりませんでした。
それともうひとつ言っておきたいことは、自分はどんな技法や技術よりも、表現の方が大事だと信じています。
ここからは独り言ですが。自分の話を聞いてくれる、大切な人が居ます。自分の何倍も生きていて、長い間絵を描き続けています。自分はその人の足下にも及びませんが、ふたりは似ているところがあると思います。心細いのは間違いなんかじゃない。絵を描いていると、あらゆるものから自由になる瞬間があって、絵を展示すると、そうではなくなることがよく分かります。2年くらい前、その意味が分かりませんでした。
それともうひとつ言っておきたいことは、自分はどんな技法や技術よりも、表現の方が大事だと信じています。
2008年5月31日
気がつけば、グループ展まで1週間切りました。来週の6日(金)から始まります。やはり、こういう機会があるからには、多くの人に観ていただきたいです。
よろしくお願いします。
関係ないけれど、今朝(昨日の夜の眠り)の夢は、カマイタチに背中を切られるというものでした。それはそれは大胆に、自分の背中がまるでフォンタナのカンヴァスのようでした!結局、カマイタチの正体は人だったのだけれど。他にもいくつか見て、すべて嫌な感じの夢でした。なんなのだろう…。そういえば、前回の個展のときも、展示が近づいてくると、嫌な夢を見る日が多かったような…。ちなみにそのときは、好きな先生に見たこともない剣幕で怒られるというもの。…今夜は見ませんように。
よろしくお願いします。
関係ないけれど、今朝(昨日の夜の眠り)の夢は、カマイタチに背中を切られるというものでした。それはそれは大胆に、自分の背中がまるでフォンタナのカンヴァスのようでした!結局、カマイタチの正体は人だったのだけれど。他にもいくつか見て、すべて嫌な感じの夢でした。なんなのだろう…。そういえば、前回の個展のときも、展示が近づいてくると、嫌な夢を見る日が多かったような…。ちなみにそのときは、好きな先生に見たこともない剣幕で怒られるというもの。…今夜は見ませんように。
2008年5月26日
2008年5月23日
2008年5月21日
2008年5月17日
絵を描くときに、だいたい音楽を聴いています。自分は音楽に詳しくないので、好きな音楽を繰り返し聴きます。洋楽はほとんど分かりません。かと言って、邦楽もよく知りません。ずっと好きなのは、くるりとキンモクセイです。たまに及川光博を聴いたり、矢野顕子を聴いたりします。でも最近繰り返し聴いているのは、Base Ball Bearというバンドの音楽です。以前から気になっていたのですけれど、ちゃんとCDを聴いたことがありませんでした。先日、TSUTAYAで半額レンタルをやっていたので、思い切って借りてみました。これが聴いてみたら自分の好きな音楽で。次の日、違うアルバムを借りにまたTSUTAYAに行きました。自分は、歌を聴くときに、その声がたいへん気になります(音だけの曲も好きなものがありますが)。いい声を聞くと、しあわせな気分になります。これは本当です。それで、このBase Ball Bearのボーカルの小出さんの声がとても好きになりました。特に、低音がしっかりしているのがよいです。あと、一瞬声を張り上げるときの、その突き抜ける感じがよいです。あと、このバンドの方は、皆さん自分と同年代なのです(ベースの関根さんは自分のひとつ年下、あとのメンバーの方は同い年)。こういう、自分と年の変わらない人たちが頑張っている姿を見るのは、やはり励みになったりします。それは最近思うことのひとつです。それで、こういういい音楽を聴くと、楽器っていいなあと思います。自分が演奏できる楽器は、この世に2つで、リコーダーとピアノです。しかしいかんせん、今住んでいる部屋にはどちらもありませんが。あとはギターの音色っていいですね。エレキギターというものは、ジャーン!と弾いたらどんなに気持ちのよいものでしょうか!いいなあ。バンドに憧れます。複数人で同じことを続けていくということは、自分には想像できないほど、大変なことのように思えます。でもそれ故の強さもあるのではないかとも思います。4人集まったなら、1匹のモンスターのようになって、街を練り歩くというようなイメージです。自分は少しそういうものに憧れを持っているかもしれません。
なんて、グループ展前に、自分の制作にまつわる(と言っても後半はほとんど話がズレましたけれど)こういうことを書いてみたくなったので、書きました。
なんて、グループ展前に、自分の制作にまつわる(と言っても後半はほとんど話がズレましたけれど)こういうことを書いてみたくなったので、書きました。
2008年5月13日
また書きますが、来月グループ展に参加します。「展示のお知らせ」のページを見てください。
下の写真は、先日友人と行った、St. Mary's International School(セント・メリーズ・インターナショナル・スクール)のカーニバル(バザーのようなもの)で学内を回ったときに見つけた、生徒たちの絵。なかなかこんな場所に入る機会もないので、楽しかった。校庭では、たくさんのテントが並んで、世界各国の料理が売られていた。友人はオーストラリアのテントでカンガルーのハンバーガーを、自分はネパールのテントでひよこ豆とタケノコのカレーを買って食べた。ネパールの料理でなぜタケノコなのかよく分からないけれど、これがとても美味しくて驚いた。
下の写真は、先日友人と行った、St. Mary's International School(セント・メリーズ・インターナショナル・スクール)のカーニバル(バザーのようなもの)で学内を回ったときに見つけた、生徒たちの絵。なかなかこんな場所に入る機会もないので、楽しかった。校庭では、たくさんのテントが並んで、世界各国の料理が売られていた。友人はオーストラリアのテントでカンガルーのハンバーガーを、自分はネパールのテントでひよこ豆とタケノコのカレーを買って食べた。ネパールの料理でなぜタケノコなのかよく分からないけれど、これがとても美味しくて驚いた。
2008年5月7日
2008年5月2日
このところ絵を描いている。自分は、1枚の絵だけを描き続けるというよりは、数枚の絵を同時進行で描いています。それは単に、使っている材料が油絵の具なので、乾くのが水彩絵の具よりも時間が掛かってしまうから、長時間1枚の絵と向き合うのには少々難があるし、それに加え、絵の中に作っている自分の風景が、目の前のものひとつだけというのが、くるしくなったりするから、というのもあるかも知れないと思った。それは学生のころからそうだったような…。
「ずっと同じことをしている。」と批判的に言うひとは、同じことを続けることが楽でないことを知らない人だと思います。それは、絵にしろ何にしろ、そのものの良さには本来関係のないことでしょう。
「ずっと同じことをしている。」と批判的に言うひとは、同じことを続けることが楽でないことを知らない人だと思います。それは、絵にしろ何にしろ、そのものの良さには本来関係のないことでしょう。
2008年4月30日
2008年4月28日
2008年4月26日
2008年4月25日
2008年4月20日
上野/東京国立博物館・平成館「国宝薬師寺展」、東京都美術館「版画展」、丸の内/行幸地下ギャラリー「アートアワードトーキョー」、渋谷/シネマライズX「非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎」。
「薬師寺展」は、朝行ったのに人の数に驚いた。絵や仏像はじっと動かずそこにあるというのに、みんな順番に、そんなに焦らず、どうして観られないのか。なぜ押したり、我れ先にと人の間に突っ込んでいくのか。自分には理解できない。この展覧会の目玉である、日光月光菩薩立像は、やはりというか圧倒的な存在感。普段お寺にあるものを美術館に移動するというのは、些か無理があるようにも思うけれど、像の全体をぐるりと見回して、そのすみずみに行き届いている神経を目の当たりにして緊張した。観ているあいだだけ、音がなくなるような。日光月光は、それぞれ表情も違うし(自分は、日光は厳しい、月光はやわらかい表情に見えた)、衣の具合も身につけているものも、少しずつ違って、完全な左右対称ではなく、それがより美しさを増している理由に感じた。あとは、東塔水煙が(模造だけれど)造形的におもしろかった。「版画展」は高校の美術の先生たちが作品を出しているので観に行った。膨大な数の中、2人の作品だけを探した。「アートアワード」は去年も観に行った。これらが今年の卒制の中で選りすぐりの作品たちかあ、とぼんやり考えながら観ていた。気になったのは風能奈々さん。絵と、日々ドローイングを描き連ねているようなノートが展示してあって、ノートの方がよかった。作品をつくろうと意気込んで描いているというよりは、(ご本人もコメントしていた)日記、あるいはメモのような感覚に近いと思った。もちろん、大きな絵とそれらのドローイングは相互に関係しているのだけれど。
それから地上に上がって、新東京ビル1階にある丸の内カフェに行った。今まで知らなかったけれど、美術系の書籍が置いてあって、自由に読める無料休憩所。時間がなくて長居できなかったが、インターネットもできるみたい。飲み物やお菓子の自動販売機もあって、テラス席もあるし、カフェ自体は2階構造になっている。結構多くの人が利用していた。次回ここら辺に来たときは、ここを利用するとしよう。出発の時間まで、アルフレッド・ウォリスやジャン・コクトーの画集を眺めた。
最後は渋谷。絶対観ると決めていた「ヘンリー・ダーガー」のドキュメンタリーを観に。シネマライズXは初めて行った。今まで体験したことのない映画館の雰囲気。小さいし、2階建てだし、そのわりに座席が少ないし(自分は2階席で観た)、場内の壁面に絵や落書き(?)が描いてあるし…。映画は、タイトル通り、謎が謎のまま提示されていて、それが良かったように思う。解決しようとする想像力をかき立てる小さな刺激の集合という印象だった。もちろん解決することはおそらく不可能で、なぜなら、本当のこと(いくらアパートの住人や親しい人が彼について話したとしても)ダーガーのことはダーガーしか知らないことで、でももしかすると本人すら分からないわけだし、それよりも重要なのは、誰にもできないような想像力があったことが事実であることと、何より、あんなに綺麗な絵(世界)がこの世に生まれたという事実だろう。あとよかったのが、アニメーションだった。これは自分でも意外だったというか…。自分は最初、絵が動く、すなわち、さっき述べたように本当のことはダーガーしか分からないだろうに、他人が勝手に解釈した展開を見せられるということに、あまり好意を持てなかったけれど、意外にも違和感がなかった。たぶん、自分が想像していた通り、というか、ダーガーの絵を観たときに自ずと感じる、その世界の動きが、再生されたというか。ああいう動きになることは、他人ではなく絵自体がはなから物語っていたように思った。…などが見終わったあとの率直な感想かな。
「薬師寺展」は、朝行ったのに人の数に驚いた。絵や仏像はじっと動かずそこにあるというのに、みんな順番に、そんなに焦らず、どうして観られないのか。なぜ押したり、我れ先にと人の間に突っ込んでいくのか。自分には理解できない。この展覧会の目玉である、日光月光菩薩立像は、やはりというか圧倒的な存在感。普段お寺にあるものを美術館に移動するというのは、些か無理があるようにも思うけれど、像の全体をぐるりと見回して、そのすみずみに行き届いている神経を目の当たりにして緊張した。観ているあいだだけ、音がなくなるような。日光月光は、それぞれ表情も違うし(自分は、日光は厳しい、月光はやわらかい表情に見えた)、衣の具合も身につけているものも、少しずつ違って、完全な左右対称ではなく、それがより美しさを増している理由に感じた。あとは、東塔水煙が(模造だけれど)造形的におもしろかった。「版画展」は高校の美術の先生たちが作品を出しているので観に行った。膨大な数の中、2人の作品だけを探した。「アートアワード」は去年も観に行った。これらが今年の卒制の中で選りすぐりの作品たちかあ、とぼんやり考えながら観ていた。気になったのは風能奈々さん。絵と、日々ドローイングを描き連ねているようなノートが展示してあって、ノートの方がよかった。作品をつくろうと意気込んで描いているというよりは、(ご本人もコメントしていた)日記、あるいはメモのような感覚に近いと思った。もちろん、大きな絵とそれらのドローイングは相互に関係しているのだけれど。
それから地上に上がって、新東京ビル1階にある丸の内カフェに行った。今まで知らなかったけれど、美術系の書籍が置いてあって、自由に読める無料休憩所。時間がなくて長居できなかったが、インターネットもできるみたい。飲み物やお菓子の自動販売機もあって、テラス席もあるし、カフェ自体は2階構造になっている。結構多くの人が利用していた。次回ここら辺に来たときは、ここを利用するとしよう。出発の時間まで、アルフレッド・ウォリスやジャン・コクトーの画集を眺めた。
最後は渋谷。絶対観ると決めていた「ヘンリー・ダーガー」のドキュメンタリーを観に。シネマライズXは初めて行った。今まで体験したことのない映画館の雰囲気。小さいし、2階建てだし、そのわりに座席が少ないし(自分は2階席で観た)、場内の壁面に絵や落書き(?)が描いてあるし…。映画は、タイトル通り、謎が謎のまま提示されていて、それが良かったように思う。解決しようとする想像力をかき立てる小さな刺激の集合という印象だった。もちろん解決することはおそらく不可能で、なぜなら、本当のこと(いくらアパートの住人や親しい人が彼について話したとしても)ダーガーのことはダーガーしか知らないことで、でももしかすると本人すら分からないわけだし、それよりも重要なのは、誰にもできないような想像力があったことが事実であることと、何より、あんなに綺麗な絵(世界)がこの世に生まれたという事実だろう。あとよかったのが、アニメーションだった。これは自分でも意外だったというか…。自分は最初、絵が動く、すなわち、さっき述べたように本当のことはダーガーしか分からないだろうに、他人が勝手に解釈した展開を見せられるということに、あまり好意を持てなかったけれど、意外にも違和感がなかった。たぶん、自分が想像していた通り、というか、ダーガーの絵を観たときに自ずと感じる、その世界の動きが、再生されたというか。ああいう動きになることは、他人ではなく絵自体がはなから物語っていたように思った。…などが見終わったあとの率直な感想かな。
2008年4月17日
1週間前の日記に、「自分は、家族がテーマになっている映画を好んでみているようだ。」と書いた。それは友人に言われて気づいたことだ(今まで自分はそれに、本当に、全く気づかなかった)。それで、なぜそうなのかと考えてみた。好きな映画を挙げると、もちろん家族をテーマにしたものだけではないのだけれど、圧倒的に多いかも知れない。それに加え、さらに共通点が多いものを挙げるとしたら、洋画ならば「イカとクジラ」「サムサッカー」「家の鍵」「ダージリン急行」「Digging To China」などで、邦画ならば「萌の朱雀」「ゆれる」「酒井家のしあわせ」などだろうか。その共通点とは、家族がどこかうまくいっていなくて、でも崩壊するほどじゃないし、ぎこちなさは消えないまま家族として、別に哀しがることもなく、反対に希望に満ち溢れていくこともなく、そのまま暮らしていくというところかなあ(「萌の朱雀」だけは家族が離散するけれど)。もちろんそれぞれの描き方があって、そこがおもしろいし、一概にひとくくりにはできないかも知れないけれど、友人に言われ、気づいたことで改めて考えてみたら、こういうことかなあと思って。
そして自分が、なぜそういうのばかり知らず知らずのうちに選んでいるのかは、きっと(明確な答えにはなっていないけれど)、家族ってそういうものだよなあ、つまり、そんなうまくいくものじゃないんだよなあ、と納得したいからなのかなあと思った。
そして自分が、なぜそういうのばかり知らず知らずのうちに選んでいるのかは、きっと(明確な答えにはなっていないけれど)、家族ってそういうものだよなあ、つまり、そんなうまくいくものじゃないんだよなあ、と納得したいからなのかなあと思った。
2008年4月16日
2008年4月14日
2008年4月12日
下馬/島田画廊「鷲見和紀郎 Yukel」展。
大学4年で鷲見さんのゼミをとっていた。それから鷲見さんと話すようになった。自分が知る大人のなかで、好きな大人の1人だ。また新しいところへ進んだ。
去年の冬の終わり、聞いたこと。そのころ自分はあまり人に会っていなくて、鷲見先生に誘われ、東京国立近代美術館の「靉光展」のレセプションに連れて行ってもらった。その帰り、入った蕎麦屋のテーブルの上に置かれた、器やコップや割り箸の袋やおしぼりなどで、「こういうものでも世界は作れるんだよ。」と言いながらいろいろ動かしたり、組み立てたり、やっぱり並べ替えたりしていた。それを自分が黙って見ていると、「君もやってみて。」と言われ、2人でテーブルの上に世界を作った。
「作品をつくると次の作品が見えて、その繰り返し。そうしてたくさんの時間が経ったあと、振り返って自分はどれだけ進んできたのか。そういうこと。」
大学4年で鷲見さんのゼミをとっていた。それから鷲見さんと話すようになった。自分が知る大人のなかで、好きな大人の1人だ。また新しいところへ進んだ。
去年の冬の終わり、聞いたこと。そのころ自分はあまり人に会っていなくて、鷲見先生に誘われ、東京国立近代美術館の「靉光展」のレセプションに連れて行ってもらった。その帰り、入った蕎麦屋のテーブルの上に置かれた、器やコップや割り箸の袋やおしぼりなどで、「こういうものでも世界は作れるんだよ。」と言いながらいろいろ動かしたり、組み立てたり、やっぱり並べ替えたりしていた。それを自分が黙って見ていると、「君もやってみて。」と言われ、2人でテーブルの上に世界を作った。
「作品をつくると次の作品が見えて、その繰り返し。そうしてたくさんの時間が経ったあと、振り返って自分はどれだけ進んできたのか。そういうこと。」
2008年4月11日
六本木/国立新美術館「アーティスト・ファイル2008ー現代の作家たち」展、外苑前/Flaneur Cafe「木下陽輔 はなをつむ」展。
「アーティストファイル」は、ずいぶんと前から秘かに楽しみにしていたのだ。なぜなら、好きな映像作家のさわひらきさんが参加しているから。展覧会全体的にこじんまりとした印象を持ったけれど、それは悪いものではなかったように思う。さわさんは、前回BankARTで観たときから、また新しいところへ進んだ気がする。正直前の方が、もっと夢の中に居るような、知らないどこかへ迷い込んでしまったような、心地よい不思議がある世界観が強かったけれど、今回はもうすこし、さわさん自身が自分の世界観を客観的に捉えているような感じがした(一緒に行った友人がこのような表現をしていた)。それでも独特の心地よさは在った。また、映像の途中に流れるオルゴールのような音がいい。映像を見始めてしばらく困ったのは、6つのスクリーンを観るということかな。さわさんの作品は、仕掛けみたいなものが登場することが多く、今回は6つそれぞれが関係し合っているから、それを見逃せまいとして目の動きがしばし落ち着かなかった。あと気になったのは、エリナ・ブロテルスさんの写真。特に後ろ姿を撮っている写真は、目を離しがたいものがあった。自分は普段、横を向いた人を描くことが多いのだけれど、それは、単純に形の面白さもあるし、片側しか分からないちょっとした不安感みたいなものが落ち着くから、というのがあるのだと思う(もちろんこれらがすべての理由ではないし、これらがちゃんとした理由かはまだはっきり分からない)。後ろ姿というものにもまた、そういうのを感じて、彼女の写真に自分と似たものを感じたようだ。作者がそれを意図しているかは知らないけれど、自分はそういう感想を持った。
見終わったあと、ミュージアムショップに寄って、カタログと四角いバッヂを買った。それと忘れてはならないのが、ミニチュア石膏像のガチャガチャ。今回はジョルジョだった。肩幅の広い男前。次は、アリアス、マルス、ヘルメスあたりを狙いたい。
「アーティストファイル」は、ずいぶんと前から秘かに楽しみにしていたのだ。なぜなら、好きな映像作家のさわひらきさんが参加しているから。展覧会全体的にこじんまりとした印象を持ったけれど、それは悪いものではなかったように思う。さわさんは、前回BankARTで観たときから、また新しいところへ進んだ気がする。正直前の方が、もっと夢の中に居るような、知らないどこかへ迷い込んでしまったような、心地よい不思議がある世界観が強かったけれど、今回はもうすこし、さわさん自身が自分の世界観を客観的に捉えているような感じがした(一緒に行った友人がこのような表現をしていた)。それでも独特の心地よさは在った。また、映像の途中に流れるオルゴールのような音がいい。映像を見始めてしばらく困ったのは、6つのスクリーンを観るということかな。さわさんの作品は、仕掛けみたいなものが登場することが多く、今回は6つそれぞれが関係し合っているから、それを見逃せまいとして目の動きがしばし落ち着かなかった。あと気になったのは、エリナ・ブロテルスさんの写真。特に後ろ姿を撮っている写真は、目を離しがたいものがあった。自分は普段、横を向いた人を描くことが多いのだけれど、それは、単純に形の面白さもあるし、片側しか分からないちょっとした不安感みたいなものが落ち着くから、というのがあるのだと思う(もちろんこれらがすべての理由ではないし、これらがちゃんとした理由かはまだはっきり分からない)。後ろ姿というものにもまた、そういうのを感じて、彼女の写真に自分と似たものを感じたようだ。作者がそれを意図しているかは知らないけれど、自分はそういう感想を持った。
見終わったあと、ミュージアムショップに寄って、カタログと四角いバッヂを買った。それと忘れてはならないのが、ミニチュア石膏像のガチャガチャ。今回はジョルジョだった。肩幅の広い男前。次は、アリアス、マルス、ヘルメスあたりを狙いたい。
2008年4月6日
有楽町/東京国際フォーラム・展示ホール「アートフェア東京2008」、末広町/旧練成中学校「101 Tokyo Contemporary Art Fair 2008」。
国際フォーラムの方は、新しい感じという作品はなかったかな。ただ、自分の好きな大塚聡さんの作品が偶然観られたのはよかった。ごちゃごちゃした会場の中で、ひっそりと、繊細な空気が漂っていた。あとは、現代美術よりも、壷や器やアフリカのお面など、古美術の方がおもしろかった。今思い出せるのはそういう、古いものばかり。あとはほとんど忘れた。旧中学校の方は、建物の窓から見た古いプールが1番おもしろかった。
居てもたってもいられないくらい、呆れたのさ。
だから思いっきり大きな声で言ってみようか。
「カスは逆立ちしてもカス。」
国際フォーラムの方は、新しい感じという作品はなかったかな。ただ、自分の好きな大塚聡さんの作品が偶然観られたのはよかった。ごちゃごちゃした会場の中で、ひっそりと、繊細な空気が漂っていた。あとは、現代美術よりも、壷や器やアフリカのお面など、古美術の方がおもしろかった。今思い出せるのはそういう、古いものばかり。あとはほとんど忘れた。旧中学校の方は、建物の窓から見た古いプールが1番おもしろかった。
居てもたってもいられないくらい、呆れたのさ。
だから思いっきり大きな声で言ってみようか。
「カスは逆立ちしてもカス。」
2008年4月4日
2008年4月3日
千葉県佐倉/川村記念美術館「DIC創業100周年記念展 マティスとボナール 地中海の光の中へ」。
やく1年の改装期間を経て15日から新しい展示が始まった。ちょうど千葉に帰っているので、行ってきた。気持ちのいい天気で、人が結構多かったかな。展示の印象は、マティスっていいなあ、と思った。今まではそこまで良さが分からないというか、あまり興味がなかったのだけれど、絵のなかの色がみんな綺麗で、特に、人の表情が素晴らしくて。その人の本質を捉えてしまっているような…。ボナールは、若い頃に描いた自画像が気になった。自画像って、描いたらおもしろいのかなと思ってしまうくらい。コレクションも多く展示されていて、ジョゼフ・コーネルの作品がいつもよりたくさんあった。やっぱり好きだなあ。あの小さな箱の中は小宇宙だ。新しくなったロスコ・ルームは、イマイチだったなあ。なぜあんな形の部屋にしたのだろう。前よりも狭くなったように思うし、監視員(2人も居る!)との距離がやたら近く感じて、落ち着かなかったなあ。
美術館を出て、目の前の池に居る白鳥。近くで見たいのに、いつも芝生には入っちゃだめなのだ。ともあれ、白鳥は気持ち良さそうに泳いでいた。
やく1年の改装期間を経て15日から新しい展示が始まった。ちょうど千葉に帰っているので、行ってきた。気持ちのいい天気で、人が結構多かったかな。展示の印象は、マティスっていいなあ、と思った。今まではそこまで良さが分からないというか、あまり興味がなかったのだけれど、絵のなかの色がみんな綺麗で、特に、人の表情が素晴らしくて。その人の本質を捉えてしまっているような…。ボナールは、若い頃に描いた自画像が気になった。自画像って、描いたらおもしろいのかなと思ってしまうくらい。コレクションも多く展示されていて、ジョゼフ・コーネルの作品がいつもよりたくさんあった。やっぱり好きだなあ。あの小さな箱の中は小宇宙だ。新しくなったロスコ・ルームは、イマイチだったなあ。なぜあんな形の部屋にしたのだろう。前よりも狭くなったように思うし、監視員(2人も居る!)との距離がやたら近く感じて、落ち着かなかったなあ。
美術館を出て、目の前の池に居る白鳥。近くで見たいのに、いつも芝生には入っちゃだめなのだ。ともあれ、白鳥は気持ち良さそうに泳いでいた。
2008年4月2日
2008年3月28日
上野/上野の森美術館「VOCA展2008」、上野の森美術館ギャラリー「加藤泉 The Riverhead」展、国立西洋美術館「ウルビーノのヴィーナス 古代からルネサンス、美の女神の系譜」展、渋谷/トーキョーワンダーサイト渋谷「トーキョーワンダーシード2008」展、恵比寿/東京都写真美術館「知られざる鬼才マリオ・ジャコメッリ展」、「シュルレアリスムと写真 痙攣する美」展、恵比寿ガーデンシネマ「ダージリン急行」。
「VOCA展」は、あまり印象に残らなかった。自分の感受性が鈍ってしまったのか、ただ心に衝撃がくる作品がないのか、分からなくなった。ああ、でも、関根直子さんの絵は、良かったと思う。どこが?他の作品の散漫さが目立っていたなかで、関根さんの絵はそれとは別の、浮遊感を感じられたから。カタログの文章もちらりと読んだけれど、わりと「絵を描く以前」や「その補助」的な役割になりがちの鉛筆という道具を、ひとつの表現材料として、学生時代から模索していたそうで。そのこだわりみたいな、ある種意地というか、そういう粘り強さみたいなものを感じる。あと、安田悠さんの絵。少々忘れがたい印象がある。この「しょうしょう」というのが、とても大事な気がする。「ヴィーナス展」は、絵よりも、キャビネットや器やカメオなどの生活用品の方がよりよかった。自分はやっぱり、絵にしろ写真にしろ、ヌードには関心がないと改めて気づいた。「トーキョーワンダーシード」は、へえ、という感じ(ここでも「VOCA展」同様、自分の感受性が鈍ってしまったのか、ただ心に衝撃がくる作品がないだけなのか、分からなくなった)。「マリオ・ジャコメッリ」は、「私には自分の顔を愛撫する手が無い」と「スカンノ」のシリーズがよかった。どちらも、写真内の白と黒の塊や形のバランスが、どきりとするくらい緊張感のあるものが多かった。
そして、映画「ダージリン急行」。こんなにおもしろいとは…。正直、映画を観るまではロードムービーというものにあまり関心が無かった。でもインドの美しい景色や、人々の生活、また旅行者の目線からの描き方がとてもよかった。あとは、一見下らない3兄弟のバランスが絶妙で、本編の前についている短編も、いい味を出していたと思う。この他にもいいところたくさん!書くのが面倒なくらい!当たり前なことですけれど、観ないとよさが伝えられない…。
「VOCA展」は、あまり印象に残らなかった。自分の感受性が鈍ってしまったのか、ただ心に衝撃がくる作品がないのか、分からなくなった。ああ、でも、関根直子さんの絵は、良かったと思う。どこが?他の作品の散漫さが目立っていたなかで、関根さんの絵はそれとは別の、浮遊感を感じられたから。カタログの文章もちらりと読んだけれど、わりと「絵を描く以前」や「その補助」的な役割になりがちの鉛筆という道具を、ひとつの表現材料として、学生時代から模索していたそうで。そのこだわりみたいな、ある種意地というか、そういう粘り強さみたいなものを感じる。あと、安田悠さんの絵。少々忘れがたい印象がある。この「しょうしょう」というのが、とても大事な気がする。「ヴィーナス展」は、絵よりも、キャビネットや器やカメオなどの生活用品の方がよりよかった。自分はやっぱり、絵にしろ写真にしろ、ヌードには関心がないと改めて気づいた。「トーキョーワンダーシード」は、へえ、という感じ(ここでも「VOCA展」同様、自分の感受性が鈍ってしまったのか、ただ心に衝撃がくる作品がないだけなのか、分からなくなった)。「マリオ・ジャコメッリ」は、「私には自分の顔を愛撫する手が無い」と「スカンノ」のシリーズがよかった。どちらも、写真内の白と黒の塊や形のバランスが、どきりとするくらい緊張感のあるものが多かった。
そして、映画「ダージリン急行」。こんなにおもしろいとは…。正直、映画を観るまではロードムービーというものにあまり関心が無かった。でもインドの美しい景色や、人々の生活、また旅行者の目線からの描き方がとてもよかった。あとは、一見下らない3兄弟のバランスが絶妙で、本編の前についている短編も、いい味を出していたと思う。この他にもいいところたくさん!書くのが面倒なくらい!当たり前なことですけれど、観ないとよさが伝えられない…。
2008年3月22日
昨日一緒に出掛けた友人から、「日本天文学会創立100周年記念切手」をもらった。衛生や惑星や銀河などが描かれている。かっこいい。手紙を出すときに使わせていただくとしよう。最近は、かっこいい切手が売っていなかったのでちょうどよかった。そういえば子供の頃は切手を集めていたなあ。まだ手つかずのドラえもんの切手も持っている。
そして今日は、駅前のスタバに居たら、知人と偶然会った。彼女は消しゴム工場の見学に行ってきた帰りらしく、いろいろな消しゴムの中から「ひとつ選んでいいよ。」と言って、テーブルの上にばらばらと出した。パンダやら、ジュースの缶やらがあって、結局自分はマーブルチョコの入れ物の消しゴムを選んだ(ちゃんとフタが開く!)。自分は工場が好きなのだけれど、個人的に実際に中を見学したことは今までない(小学校の校外学習とかではある)。工場を外から眺めては、いつもうっとりしてしまう。結構そういう人は多いのではないかな。今日会った彼女が次回工場見学に行くときには、連いていくことになった。
今日は、もらうつながり、ということで。
そして今日は、駅前のスタバに居たら、知人と偶然会った。彼女は消しゴム工場の見学に行ってきた帰りらしく、いろいろな消しゴムの中から「ひとつ選んでいいよ。」と言って、テーブルの上にばらばらと出した。パンダやら、ジュースの缶やらがあって、結局自分はマーブルチョコの入れ物の消しゴムを選んだ(ちゃんとフタが開く!)。自分は工場が好きなのだけれど、個人的に実際に中を見学したことは今までない(小学校の校外学習とかではある)。工場を外から眺めては、いつもうっとりしてしまう。結構そういう人は多いのではないかな。今日会った彼女が次回工場見学に行くときには、連いていくことになった。
今日は、もらうつながり、ということで。
2008年3月21日
駒場/日本民藝館「版と拓の美ー摺る・写す」展、東北沢/現代ハイツ「岩永洋美×梅野睦 おとなりさん」展、「宮崎勇次郎」展。
日本民藝館には初めて行った。素晴らしい建物。あのような建物に入れるというだけでも気分がよくなる。次は西館にも入ってみたい(西館は第2・第3水曜土曜のみ公開)。展示はなかなか見応えがあって、絵・版画・拓本の他にも、江戸時代や室町時代などの生活に使われた道具が展示されていて、そちらの方が自分としては興味深かった。生活で使うものを展示してそれをまじまじ眺めるというのも、よくよく考えれば奇妙なことかも知れないけれど、自分の経験では測り知れないほどの時間が経ったものは、やはりただそれだけで魅力的に見える。茶碗や糸巻きや鉄瓶など。とくに印象に残ったのは、螺鈿細工が施された手箱。貝殻によって梅や鳥が描かれていて、その美しさ、形の素朴さにうっとりしてしまう。
帰りに下北沢をフラフラ歩いて夕飯を食べた。鮭の西京焼定食。「いただきます。」をしてすぐに味噌汁のお椀をひっくり返した。お椀つながり、ということで。
日本民藝館には初めて行った。素晴らしい建物。あのような建物に入れるというだけでも気分がよくなる。次は西館にも入ってみたい(西館は第2・第3水曜土曜のみ公開)。展示はなかなか見応えがあって、絵・版画・拓本の他にも、江戸時代や室町時代などの生活に使われた道具が展示されていて、そちらの方が自分としては興味深かった。生活で使うものを展示してそれをまじまじ眺めるというのも、よくよく考えれば奇妙なことかも知れないけれど、自分の経験では測り知れないほどの時間が経ったものは、やはりただそれだけで魅力的に見える。茶碗や糸巻きや鉄瓶など。とくに印象に残ったのは、螺鈿細工が施された手箱。貝殻によって梅や鳥が描かれていて、その美しさ、形の素朴さにうっとりしてしまう。
帰りに下北沢をフラフラ歩いて夕飯を食べた。鮭の西京焼定食。「いただきます。」をしてすぐに味噌汁のお椀をひっくり返した。お椀つながり、ということで。
2008年3月17日
2008年3月14日
2008年3月8日
2008年3月7日
2008年3月5日
深夜テレビをつけたら、NHKで「プロフェッショナル」という番組がやっていて、そのときのゲストが将棋棋士の羽生善治さんだった。自分が子供の頃、コーヒーや公文式のコマーシャルに出ていて、将棋のことは何も分からないのに、この人のことは知っていた。番組の中で、羽生さんが「10代の頃とは違って、記憶力や閃く力が衰えてきたのが分かる。30代半ばになった今、直感を信じて将棋をするようになった。それは10代の頃にはなかったこと。」と話していた。そのあと「直感は、今までの経験から生まれてくるもの。」また「続けていく努力が才能だ。」とも言っていて、強く印象に残った。
番組の途中、多くの局の場合、正念場になると羽生さんの将棋を指す手が震えだすというのを紹介する場面があって、目が離せなくなった。決着がついて局が終了しても(羽生さんが勝ったとしても)、羽生さんの手の震えは止まらなかった。
番組の途中、多くの局の場合、正念場になると羽生さんの将棋を指す手が震えだすというのを紹介する場面があって、目が離せなくなった。決着がついて局が終了しても(羽生さんが勝ったとしても)、羽生さんの手の震えは止まらなかった。
2008年3月4日
おととい、東京国立近代美術館に「わたしいまめまいしたわ」を観に行った。行くまで知らなかったのだけれど、その日はちょうど無料で観られた。山中信夫の作品がよかったなあ。あとは須田一政と牛腸茂雄の作品。どきどきした。思えば、この日印象に残ったのはすべて写真作品だ。
そのあと、友人の知り合いの展示を観るために高円寺に行った。会場が古本酒場(?)というようなところで、お店が開くまで時間があったので、それまでジャズ喫茶に入ってみたり、別の古本屋に入ってみたりした。そこで向田邦子の「幸福」という本を買った。今となってはなんで買ったのか分からない。100円だったからなのか…、今まで向田邦子の文章は、小学校の教科書で読んだくらいでその後はまともに読んだことがなく、それでもその小学校の教科書で読んだときの印象が少なからず残っていて、今の自分がそれを求めているのかも知れなかった。
そのあと、友人の知り合いの展示を観るために高円寺に行った。会場が古本酒場(?)というようなところで、お店が開くまで時間があったので、それまでジャズ喫茶に入ってみたり、別の古本屋に入ってみたりした。そこで向田邦子の「幸福」という本を買った。今となってはなんで買ったのか分からない。100円だったからなのか…、今まで向田邦子の文章は、小学校の教科書で読んだくらいでその後はまともに読んだことがなく、それでもその小学校の教科書で読んだときの印象が少なからず残っていて、今の自分がそれを求めているのかも知れなかった。
2008年2月29日
2008年2月28日
2008年2月26日
アパートの隣人の音楽がうるさくてしょうがない。前にも日記に書いたけれど。四六時中鳴っているわけではなくて、その人が目覚める朝5時くらいから長いときは1時間くらい鳴っている。前は、自分は眠っていたので別にそこまで気にしなかったのだけれど、最近はその音で目覚めてしまう。これがイライラする。この上ない苛立ち。その音楽は80年代風のダンスミュージック。女性ボーカルで、ベース音がとにかく響いてくる。隣人は狂っているとしか思えない。今日もそれで目覚めてしまった。今朝は無性にむしゃくしゃしたので、そのうるさい隣人側の窓を開けたら(なぜそうしたのかは自分でも分からない、とにかく壁越しに聴こえてくる音楽をどうにかしたかった)、網戸が外れてしまって、余計にイライラした。網戸はそのままにして部屋に戻った。朝からそんなこと。
2008年2月24日
2008年2月23日
横浜のBankART Studio NYKに「和光大学卒業制作展2008」を観に行った。自分が卒業して初めての卒展。今年は場所がなかなかいいだけに、難しいことも多かったはずだ。正直、場所負けしない作品がどれだけあるのか不安の声も聞いた。率直な感想は、なかなか見応えのある内容だったんじゃないかな。もちろん例外の作品もあるけれど。その作品にどれだけ真面目に向き合ったか、本気だったかは、手数に関係なくこっちに伝わってくるものがある。そういうものが何点かあった。日本画がよかったな。展示自体もなかなかバランスよく、できていたのではないかな。ただ、自分が卒業生ということもあって、他の学校の卒制を観るときのように、しょうしょう客観的に観られていないのも事実だけれど。
2008年2月22日
2008年2月21日
2008年2月20日
2008年2月19日
2008年2月18日
なぜだか眠れません。布団に入る前にコーヒーを飲んだわけでもないのですけれど。たまにあります。こういう風に、眠いのに眠れなくなるときが。今夜がその日のようです。布団のなかでじっとしているのが少々つらくなってきたので、パソコンの電源を入れて、1度書いた日記を消して、書き直している次第です。ということは、これはもう、実質19日の日記となるわけですね。ただいま午前3:29であります。さて、考えてみますと、眠れない理由は何があるでしょうか。先にも述べたようにコーヒーは飲んでいません。昼寝もしていません。日中はわりと体を動かしていた方です。ならば、なぜ眠れないのでしょうか。思い当たるものといえば、不安というやつでしょうか。何が不安かって、すべてですよ。このまま暗い穴の中に落ちていくような気分であります。しかし不思議なのは、それとほぼ同時に開放された気分でもあるということです。「穴の中に居る」ことも「開放されている」ことも、じつのところ、そんなに違いはないのではないでしょうか。と、ここで思ったのは、いったい、わたしは、誰に向かって話をしているのでしょうか。アーアー。応答してください。そうこうしているうちに午前3:38になってしまいました。みるみるうちに過去になっていってしまいますね。過去の連続がいつかの未来ということでしょうか。しかしながら、夜明け前は冷え込みますね。暖房をつけていないので、とても寒いです。こたつに入っておりますが、でもとても寒いです。それなのに一向に眠くなりません。このままでは24時間睡眠なしということになってしまいます。それはさすがに体に悪いというもの。健全ではありません。朝日を浴びないと、人間の体内においてビタミンが生成されないそうです。それはいけません。ただでさえ栄養が偏っていますから。だんだん乱文になってきたように思います。この辺でやめておきましょうか。きっと読み返すことも無い文章です。午前3:51。
2008年2月17日
2008年2月16日
2008年2月13日
2008年2月11日
2008年2月9日
2008年2月6日
2008年2月5日
アトリエ日曜日(自分のアトリエの名前。自分しかその存在を知らない!)の大掃除に着手した。これが大変。壁の半分くらいの大きさの絵が何枚かあって、気分が落ち込む。落ち込むのはきっと、大きさもそうだけれど、あまり気に入っていないから。生活と制作の場所がひとつ屋根の下だと、いいこともあれば悪いこともある。いいことは、描きたいと思ったときにすぐ移動できる、家賃が一緒、など。悪いところは、怠けることが簡単、怠けることが簡単、怠けることが簡単、など。
「萌の朱雀」について、つけたし。
この映画は高校生のころ、偶然つけたテレビで見ました。それ以来忘れられない映画です。監督がどういう人か知りませんが、稀に見る美しい映画です。自然の美しさも、人間(日本人)の美しさも、家族の儚さも見事に捉えていると思うのです。おとといの日記で書いた「生を感じる」というのはそういうことです。台詞が聞き取りづらいとか、物語の把握が一見難しいとか、そんなものは、この映画の前ではどうでもいいことと同じです。ただひとつの家族の中で起こっていることが、淡々と描かれているだけです。だからこんなにも強いのだと思います。
「萌の朱雀」について、つけたし。
この映画は高校生のころ、偶然つけたテレビで見ました。それ以来忘れられない映画です。監督がどういう人か知りませんが、稀に見る美しい映画です。自然の美しさも、人間(日本人)の美しさも、家族の儚さも見事に捉えていると思うのです。おとといの日記で書いた「生を感じる」というのはそういうことです。台詞が聞き取りづらいとか、物語の把握が一見難しいとか、そんなものは、この映画の前ではどうでもいいことと同じです。ただひとつの家族の中で起こっていることが、淡々と描かれているだけです。だからこんなにも強いのだと思います。
2008年2月4日
友人と一緒に、目黒の自家焙煎珈琲の喫茶店カフェ・アインにワタベテッサンさんの展示「アニマルールル」を観に行った。テッサンさんの絵が好きで、展示のたびに観に行っている。毎回、線や色が楽しそうです。アインで注文したのはコーヒーとアップルパイ。前回はコーヒーとチーズケーキ。どちらも美味しいです。
帰りは友人の案内で目黒から渋谷まで歩いて帰った。歩くのは楽しい。どんどん歩いていけます。おしゃべりしながら、線路の脇を通ったり、アンティークの雑貨などを売っているお店(でも値段がリーズナブル!)に入ったり、大きな煙突の下を歩いたりした。そうして、へんてこな形の建物を見つけたり、写真美術館をいつもとは違う方角から眺めてみたり、パパラッチみたいな集団に遭遇したりした。日がだいぶ延びたなあと思う。5時を過ぎてもまだだいぶ明るかった。友人は、冬のこの時期のちょうどこのくらいの時間が好きだと言った。「なんだか急に静かになる。」
帰りは友人の案内で目黒から渋谷まで歩いて帰った。歩くのは楽しい。どんどん歩いていけます。おしゃべりしながら、線路の脇を通ったり、アンティークの雑貨などを売っているお店(でも値段がリーズナブル!)に入ったり、大きな煙突の下を歩いたりした。そうして、へんてこな形の建物を見つけたり、写真美術館をいつもとは違う方角から眺めてみたり、パパラッチみたいな集団に遭遇したりした。日がだいぶ延びたなあと思う。5時を過ぎてもまだだいぶ明るかった。友人は、冬のこの時期のちょうどこのくらいの時間が好きだと言った。「なんだか急に静かになる。」
2008年2月3日
雪が降るときも音はするのですね。夜、なんだか眠れないまま本を読んでいたら外の様子がいつもと違う気がして、窓の外を見てみたら雪が降っていました。なんだかうれしくなって、ベランダに出て、積もったばかりの雪を食べました。へんな味。朝、さっそく雪だるまを作ってみた。この、なんとも気持ちわるい表情。適当な「目」が見つからなくて(というか寒くて探さなかった)、冷蔵庫につけていた磁石。
それと、夜中に読んでいた本は、昨日の日記にも書いた「人のセックスを笑うな」の原作(結構前から部屋においてあったのに、読んでいなかった)。序盤は原作の方が好きだった。以前、映画評論家(?)のおすぎが言っていたのだけれど、原作は映画を観てから読んだ方がいい、みたいなことを。本は、文章を読むことによって、自分のなかに映像のようなものが出てきて、それが真実となってしまうというか。だから、そのあとに他人によって作り出された映像を目の当たりにしたときに、少なからずショックを受けるという。でも先に映画の方を観てしまっては、自分の想像力の幅がある程度制限されてしまうとも言えるし。いい悪い両方あるだろう。今回は、原作を先に読んでいたら、映画の、原作との多くの相違点にショックだったかも知れない。しかし、どちらにせよいいものはいいわけで、ただ、順番が変わるだけで印象がまったく異なってしまうという、人生のような話ですね!
最近、携帯電話の調子がとても悪くて、メールを送信しようとすると電源が落ちる!まだ買ってから1年半も経っていないのだけれど、どうしたものかなあ。バッテリーを換えたほうがいいのかな。でもまあいいか。
最近観た映画(DVD)。「ファーゴ」、「青い春」、「萌の朱雀」。
「萌の朱雀」は(これDVDになっていたんですね。以前調べたときはビデオしかなかったのだけれど)何度観ても素晴らしい。何がいいって、映像も設定も物語もすべて。なんというか生を感じます。こういう作品は珍しいと思います。自分が他に知らないだけかもしれませんが。映画は言ってしまえば虚構ですが、歓びをあたえてくれる大切なものです。
それと、夜中に読んでいた本は、昨日の日記にも書いた「人のセックスを笑うな」の原作(結構前から部屋においてあったのに、読んでいなかった)。序盤は原作の方が好きだった。以前、映画評論家(?)のおすぎが言っていたのだけれど、原作は映画を観てから読んだ方がいい、みたいなことを。本は、文章を読むことによって、自分のなかに映像のようなものが出てきて、それが真実となってしまうというか。だから、そのあとに他人によって作り出された映像を目の当たりにしたときに、少なからずショックを受けるという。でも先に映画の方を観てしまっては、自分の想像力の幅がある程度制限されてしまうとも言えるし。いい悪い両方あるだろう。今回は、原作を先に読んでいたら、映画の、原作との多くの相違点にショックだったかも知れない。しかし、どちらにせよいいものはいいわけで、ただ、順番が変わるだけで印象がまったく異なってしまうという、人生のような話ですね!
最近、携帯電話の調子がとても悪くて、メールを送信しようとすると電源が落ちる!まだ買ってから1年半も経っていないのだけれど、どうしたものかなあ。バッテリーを換えたほうがいいのかな。でもまあいいか。
最近観た映画(DVD)。「ファーゴ」、「青い春」、「萌の朱雀」。
「萌の朱雀」は(これDVDになっていたんですね。以前調べたときはビデオしかなかったのだけれど)何度観ても素晴らしい。何がいいって、映像も設定も物語もすべて。なんというか生を感じます。こういう作品は珍しいと思います。自分が他に知らないだけかもしれませんが。映画は言ってしまえば虚構ですが、歓びをあたえてくれる大切なものです。
2008年2月2日
2008年1月31日
地球は70%が水であとは嘘と本当でできているという話。
乱暴な言葉をつかう人の話。
きれいな景色はあっちにあるという話。
このまま終わるという話。
昨日の感想文をちゃんと送ってくださいという話。
舌を火傷したという話。
ずいぶん前に転んだという話。
ボールを遠くまで投げるという話。
雨は涙と違って丸いかたちをしているという話。
鏡を覗き込むという話。
髪の毛がたくさん抜けるという話。
ネットがなくても素敵な人生を送れるはずだという話。
家族はいないという話。
朝ご飯の話。
水の話。
下品な笑い方の話。
誕生日の話。
自転車をわざと壊したという話。
糸が切れたという話。
温泉がわいたという話。
知らないふりをしたという話。
このアパートは古いという話。
とても揺れるという話。
隣りに女の人が住んでいるという話。
陽当たりがとてもいいという話。
携帯電話が壊れたという話。
ここには何もないという話。
キッチンはあるという話。
そういえば鍋もあるという話。
ならば牛乳が温められるという話。
誰も分からない人の話。
燃やせるゴミの話。
ゴミみたいな人の話。
視力が2.0という話。
子供の時代があるという話。
友達のインコを逃がしたという話。
ブランコから落ちたという話。
2003年に12月があるという話。
誤解をされているという話。
面倒くさいという話。
金曜日になるという話。
女の子の話。
男の子の話。
千葉県の話。
新潟県の話。
アルコール依存症の人の話。
腕が4本あるという話。
目が4つあるという話。
鼻が2つあるという話。
手をつながないという話。
あさっての夕食はないという話。
牛乳が飲めないという話。
今から何をしようという話。
未来が見えないという話。
ひとりで部屋にいるという話。
ココアが冷めたという話。
とっても楽しいという話。
みんな喜ぶしかないという話。
すっかり春になったという話。
誰も読んでいないという話。
それは悲しいという話。
もう絵を描いていないという話。
もう歩けないという話。
朝にするという話。
夜にするという話。
電車はなくなるという話。
北極はなくなるという話。
南極は残るという話。
人から聞いた話。
乱暴な言葉をつかう人の話。
きれいな景色はあっちにあるという話。
このまま終わるという話。
昨日の感想文をちゃんと送ってくださいという話。
舌を火傷したという話。
ずいぶん前に転んだという話。
ボールを遠くまで投げるという話。
雨は涙と違って丸いかたちをしているという話。
鏡を覗き込むという話。
髪の毛がたくさん抜けるという話。
ネットがなくても素敵な人生を送れるはずだという話。
家族はいないという話。
朝ご飯の話。
水の話。
下品な笑い方の話。
誕生日の話。
自転車をわざと壊したという話。
糸が切れたという話。
温泉がわいたという話。
知らないふりをしたという話。
このアパートは古いという話。
とても揺れるという話。
隣りに女の人が住んでいるという話。
陽当たりがとてもいいという話。
携帯電話が壊れたという話。
ここには何もないという話。
キッチンはあるという話。
そういえば鍋もあるという話。
ならば牛乳が温められるという話。
誰も分からない人の話。
燃やせるゴミの話。
ゴミみたいな人の話。
視力が2.0という話。
子供の時代があるという話。
友達のインコを逃がしたという話。
ブランコから落ちたという話。
2003年に12月があるという話。
誤解をされているという話。
面倒くさいという話。
金曜日になるという話。
女の子の話。
男の子の話。
千葉県の話。
新潟県の話。
アルコール依存症の人の話。
腕が4本あるという話。
目が4つあるという話。
鼻が2つあるという話。
手をつながないという話。
あさっての夕食はないという話。
牛乳が飲めないという話。
今から何をしようという話。
未来が見えないという話。
ひとりで部屋にいるという話。
ココアが冷めたという話。
とっても楽しいという話。
みんな喜ぶしかないという話。
すっかり春になったという話。
誰も読んでいないという話。
それは悲しいという話。
もう絵を描いていないという話。
もう歩けないという話。
朝にするという話。
夜にするという話。
電車はなくなるという話。
北極はなくなるという話。
南極は残るという話。
人から聞いた話。
2008年1月30日
スニーカーは白でないといけません。
飲み物は紅茶でないといけません。
それにレモンもミルクも入れてはいけません。
砂糖も入れてはいけません。
コップは10個持っていないといけません。
明るくなるまで眠ってはいけません。
カップラーメンは食べてはいけません。
簡単に笑ってはいけません。
外でタバコを吸ってはいけません。
太ってはいけません。
痩せすぎてはいけません。
歩いて遠くまで行かないといけません。
インターネットはやりすぎてはいけません。
友達を減らしてはいけません。
友達に不快な思いをさせてはいけません。
友達に不快な思いをさせてはいけません。
遅刻はしてはいけません。
自転車は乗ってはいけません。
故郷に帰ってはいけません。
アトリエの掃除をしなくてはいけません。
女の子と出掛けなくてはいけません。
男の子と出掛けてはいけません。
弱虫は弱虫らしくそこから始めなければいけません。
早朝に大音量で音楽を聴いてはいけません。
仕事を探さなくてはいけません。
質のいい家具を集めないといけません。
ゴキブリは手で捕まえないといけません。
泥棒に対抗してはいけません。
店員さんに「ごちそうさまでした。」を言わなければいけません。
店員さんは「ありがとうございました。」を言わなければいけません。
日焼けをしてはいけません。
謝らなければいけません。
告白してはいけません。
猫を無視してはいけません。
でも触ってはいけません。
嘘をついてはいけません。
ゴミは朝に出さないといけません。
いい歌を聴かなければいけません。
ひとり遊びが上手でないといけません。
洋服屋さんに堂々と入っていけるようにならなくてはいけません。
出先でビニール傘を買ってはいけません。
賞味期限が切れた牛乳を飲んではいけません。
携帯電話は1日2回しか使ってはいけません。
これを読んでいる人は感想文を4000字書かないといけません。
無駄なお金を使ってはいけません。
馬鹿は馬鹿のままでいいと思ってはいけません。
話し相手を増やさなければいけません。
犯罪を犯してはいけません。
むやみに人を殺してはいけません。
ゲームをやってはいけません。
見透かしたようなことを言ってはいけません。
料理を憶えなければいけません。
節約をしなければいけません。
30歳まで髪の毛を染めてはいけません。
遠い国に行かなければいけません。
そこで暮らさなければいけません。
知らない人の車に乗ってはいけません。
ポケットティッシュを受け取ってはいけません。
子供を守ってやらないといけません。
歯を矯正しないといけません。
それまでは笑うときに歯を見せてはいけません。
明日は遊びに行ってはいけません。
飲み物は紅茶でないといけません。
それにレモンもミルクも入れてはいけません。
砂糖も入れてはいけません。
コップは10個持っていないといけません。
明るくなるまで眠ってはいけません。
カップラーメンは食べてはいけません。
簡単に笑ってはいけません。
外でタバコを吸ってはいけません。
太ってはいけません。
痩せすぎてはいけません。
歩いて遠くまで行かないといけません。
インターネットはやりすぎてはいけません。
友達を減らしてはいけません。
友達に不快な思いをさせてはいけません。
友達に不快な思いをさせてはいけません。
遅刻はしてはいけません。
自転車は乗ってはいけません。
故郷に帰ってはいけません。
アトリエの掃除をしなくてはいけません。
女の子と出掛けなくてはいけません。
男の子と出掛けてはいけません。
弱虫は弱虫らしくそこから始めなければいけません。
早朝に大音量で音楽を聴いてはいけません。
仕事を探さなくてはいけません。
質のいい家具を集めないといけません。
ゴキブリは手で捕まえないといけません。
泥棒に対抗してはいけません。
店員さんに「ごちそうさまでした。」を言わなければいけません。
店員さんは「ありがとうございました。」を言わなければいけません。
日焼けをしてはいけません。
謝らなければいけません。
告白してはいけません。
猫を無視してはいけません。
でも触ってはいけません。
嘘をついてはいけません。
ゴミは朝に出さないといけません。
いい歌を聴かなければいけません。
ひとり遊びが上手でないといけません。
洋服屋さんに堂々と入っていけるようにならなくてはいけません。
出先でビニール傘を買ってはいけません。
賞味期限が切れた牛乳を飲んではいけません。
携帯電話は1日2回しか使ってはいけません。
これを読んでいる人は感想文を4000字書かないといけません。
無駄なお金を使ってはいけません。
馬鹿は馬鹿のままでいいと思ってはいけません。
話し相手を増やさなければいけません。
犯罪を犯してはいけません。
むやみに人を殺してはいけません。
ゲームをやってはいけません。
見透かしたようなことを言ってはいけません。
料理を憶えなければいけません。
節約をしなければいけません。
30歳まで髪の毛を染めてはいけません。
遠い国に行かなければいけません。
そこで暮らさなければいけません。
知らない人の車に乗ってはいけません。
ポケットティッシュを受け取ってはいけません。
子供を守ってやらないといけません。
歯を矯正しないといけません。
それまでは笑うときに歯を見せてはいけません。
明日は遊びに行ってはいけません。
2008年1月28日
昨日の続きを書くのは止めます。1日たって気分が変わりました。
今日ふと、龍が本当に居たらおもしろいなあと、歩きながら思った。鳥が空を飛んでいるように、龍が飛んでいたらいいなあと。人間たちを食料としないといいな(人間を食料としてしまうと、きっと、政府が龍退治を企ててしまうだろうから)。もう随分と前、テレビで芸人の藤井隆が上海の凧揚げ名人に会いに行って、世界の凧大会で優勝した凧を実際に揚げるという番組をやっているのを見た。その上海の凧揚げ名人の凧が、数十メートルもある龍の格好(色とりどりで丸い形の同じ紙が何十枚も連なっていて、先頭部分は龍の顔になっている…うまく説明できないけれど、とにかく龍に見えるかたち)をしていて、揚げるには男の人たちが何十人もかかって揚げるというものだった。しばらくして揚がった!と思ったら、凧のロープの太さほどもある糸が切れてしまい、凧は風に乗って飛んでいってしまった。あのとき少し感動したなあ。目で確認できなくなるまで遠くまで飛んでいく凧のすごさと、その姿が本当に龍が飛んでいるように見えたから。
今日ふと、龍が本当に居たらおもしろいなあと、歩きながら思った。鳥が空を飛んでいるように、龍が飛んでいたらいいなあと。人間たちを食料としないといいな(人間を食料としてしまうと、きっと、政府が龍退治を企ててしまうだろうから)。もう随分と前、テレビで芸人の藤井隆が上海の凧揚げ名人に会いに行って、世界の凧大会で優勝した凧を実際に揚げるという番組をやっているのを見た。その上海の凧揚げ名人の凧が、数十メートルもある龍の格好(色とりどりで丸い形の同じ紙が何十枚も連なっていて、先頭部分は龍の顔になっている…うまく説明できないけれど、とにかく龍に見えるかたち)をしていて、揚げるには男の人たちが何十人もかかって揚げるというものだった。しばらくして揚がった!と思ったら、凧のロープの太さほどもある糸が切れてしまい、凧は風に乗って飛んでいってしまった。あのとき少し感動したなあ。目で確認できなくなるまで遠くまで飛んでいく凧のすごさと、その姿が本当に龍が飛んでいるように見えたから。
2008年1月27日
今日は、部屋もしくは家について書いてみようかと思う。なぜなら、なんだか今日は「部屋」について思うことがいろいろあったから。
えーと、今日は部屋の大掃除をした。なぜこの時期かというと、年末に特に大掃除をしなかったから。半日かけたのだけれど、結局、アトリエ日曜日(自分のアトリエの名前)までは手が回らず、その他を掃除した。いつの間にか物が増えたなあと思う。以前にも日記に書いたように、自分は部屋にあまり物を置きたくない。極端なことを言ってしまうと、ベッドと机と本棚くらいでいい。もっと言ってしまえば、押し入れの中にも物はあまり入れたくありません。服くらいでいい。しかし現実はなかなかそうもいかず、炊飯器もトースターも掃除機も必要なわけで。まあ、それでもなるべく理想に近づけたいと思いながら掃除をした。あと棚に入れてあった今まで読んだ本のカバー(お店でつけてくれるやつ)を全部外した(あらためて思うのは、読んだものが偏っている。そして少ない量)。理由はとくにない。
大掃除の最中に、いろいろ切らしているものが目についたので、夕方100円ショップに行った。店に向かっているとき、今日気づいたのだけれど、自分の部屋の割と近所にある長屋が取り壊されていた(正確にいうとまだその作業の途中だけれど、いずれ跡形もなくなってしまう)。自分は、その外壁の感じとか、ただ「長屋」という形式なだけでこの建物が好きだったので、すこし残念に思う。今住んでいるところは、工事が絶えなくて、マンションを建てたり、家を壊してまた新しい家を建てたり。しかもその次から次へと建設されるマンションが、景観に対して無神経というか。なんて変な色の壁とか。まあとにかく、ここに住み始めた頃とはだいぶ景色が違うということ。今では引っ越してきた当初の景色がどんなものだったか思い出せないくらい。そうして、壊されていくあの長屋のことも思い出せなくなってしまう。
そういえば、自分がこのアパートに住み始めて丸5年経つんだなあ。はやいなあ。正直そろそろ引っ越したいのだけれど、そうも言ってられなくなってきたようで、最近は少し考え中。などと言っている間に28歳とかになっちゃうのかなー。それもなんだか嫌だなー。
少し話がずれるけれど、夕方歩いているときにいろいろ考えてしまった。たぶん、寒かったし、ひとりで歩いていたし、川沿いを歩いていたから、気分がそうなったのだと思う。以前、人に「冗談とか言うの?」と言われてしまい、正直驚いたことがあった。そんな風に見られているのかなあ、と。まあ考えてもしょうがないことかも知れないけれど。だって、そう思われる理由はやはり自分にあるのだと思うし、そしてその理由もなんとなく分かっているし、ならば直したらどうだい?ということだけれど、別に直したいとまでは思っていないというか。悪くないじゃんと思っているというか。あー分からん。書いてて余計に何言いたいのか分からなくなってきた。続きはまた明日にでも。まあ、とにかく自分は冗談も言うし、歌だって歌うし(ひとりでいるとき)、気分がいいときは踊ったりしますよ、ってことなんだ。
えーと、今日は部屋の大掃除をした。なぜこの時期かというと、年末に特に大掃除をしなかったから。半日かけたのだけれど、結局、アトリエ日曜日(自分のアトリエの名前)までは手が回らず、その他を掃除した。いつの間にか物が増えたなあと思う。以前にも日記に書いたように、自分は部屋にあまり物を置きたくない。極端なことを言ってしまうと、ベッドと机と本棚くらいでいい。もっと言ってしまえば、押し入れの中にも物はあまり入れたくありません。服くらいでいい。しかし現実はなかなかそうもいかず、炊飯器もトースターも掃除機も必要なわけで。まあ、それでもなるべく理想に近づけたいと思いながら掃除をした。あと棚に入れてあった今まで読んだ本のカバー(お店でつけてくれるやつ)を全部外した(あらためて思うのは、読んだものが偏っている。そして少ない量)。理由はとくにない。
大掃除の最中に、いろいろ切らしているものが目についたので、夕方100円ショップに行った。店に向かっているとき、今日気づいたのだけれど、自分の部屋の割と近所にある長屋が取り壊されていた(正確にいうとまだその作業の途中だけれど、いずれ跡形もなくなってしまう)。自分は、その外壁の感じとか、ただ「長屋」という形式なだけでこの建物が好きだったので、すこし残念に思う。今住んでいるところは、工事が絶えなくて、マンションを建てたり、家を壊してまた新しい家を建てたり。しかもその次から次へと建設されるマンションが、景観に対して無神経というか。なんて変な色の壁とか。まあとにかく、ここに住み始めた頃とはだいぶ景色が違うということ。今では引っ越してきた当初の景色がどんなものだったか思い出せないくらい。そうして、壊されていくあの長屋のことも思い出せなくなってしまう。
そういえば、自分がこのアパートに住み始めて丸5年経つんだなあ。はやいなあ。正直そろそろ引っ越したいのだけれど、そうも言ってられなくなってきたようで、最近は少し考え中。などと言っている間に28歳とかになっちゃうのかなー。それもなんだか嫌だなー。
少し話がずれるけれど、夕方歩いているときにいろいろ考えてしまった。たぶん、寒かったし、ひとりで歩いていたし、川沿いを歩いていたから、気分がそうなったのだと思う。以前、人に「冗談とか言うの?」と言われてしまい、正直驚いたことがあった。そんな風に見られているのかなあ、と。まあ考えてもしょうがないことかも知れないけれど。だって、そう思われる理由はやはり自分にあるのだと思うし、そしてその理由もなんとなく分かっているし、ならば直したらどうだい?ということだけれど、別に直したいとまでは思っていないというか。悪くないじゃんと思っているというか。あー分からん。書いてて余計に何言いたいのか分からなくなってきた。続きはまた明日にでも。まあ、とにかく自分は冗談も言うし、歌だって歌うし(ひとりでいるとき)、気分がいいときは踊ったりしますよ、ってことなんだ。
2008年1月24日
2008年1月23日
2008年1月22日
2008年1月21日
2008年1月20日
帰りの地下鉄の駅で、手袋をなくしてしまい、少し焦った。たぶん、自分がホームに降りてからの本当に短い時間だったと思う。結局、駅員さんのところで見つかったのだけれど、そんな数分の間に届けられていたなんて。手元に戻ってきた手袋を、落とさないようにバッグに入れてからしばらくの間、手袋を探している途中に聞き込みをしたおばさんの声や、手袋を持って出てきた駅員さんの声や、届けてくれた人の見えない姿を思い出してみた。
さっきまであったものが一瞬で(というか自分が意識していないうちに)、姿を消す、あるいはそれ以前とはまったく違った状態になると、すぐに受け入れられない。それは物に限らずとも往々にしてある。どこかにあるはずと、希望を捨てきれない。
さっきまであったものが一瞬で(というか自分が意識していないうちに)、姿を消す、あるいはそれ以前とはまったく違った状態になると、すぐに受け入れられない。それは物に限らずとも往々にしてある。どこかにあるはずと、希望を捨てきれない。
2008年1月17日
最近観た映画(DVD)。「サムサッカー」、「カポーティ」、「叫」、「ハード・キャンディ」。
「サムサッカー」はとてもよかったなあ。映画の中で主人公が急に走り出すシーンが何回かあるのだけれど、そういう行動をとる気持ちがよく分かる。自分はそう簡単に受け入れられない、他人のことは欲しいくらいに思うことがあるのに。「答えのない人生を生き抜いていく力」、それは手に入るものなのか、作り出すものなのか。「カポーティ」は、原作を読んでみたくなった。この映画のではなくて、この映画に出てくる、カポーティが書いた「冷血」という作品。「ハード・キャンディ」は登場人物が限りなく少ない。そのためか、緊張感と非現実感がある。根本的な謎は解決しないけれど、名残が何もなかった。こういうのも、いいのかも知れない。
「サムサッカー」はとてもよかったなあ。映画の中で主人公が急に走り出すシーンが何回かあるのだけれど、そういう行動をとる気持ちがよく分かる。自分はそう簡単に受け入れられない、他人のことは欲しいくらいに思うことがあるのに。「答えのない人生を生き抜いていく力」、それは手に入るものなのか、作り出すものなのか。「カポーティ」は、原作を読んでみたくなった。この映画のではなくて、この映画に出てくる、カポーティが書いた「冷血」という作品。「ハード・キャンディ」は登場人物が限りなく少ない。そのためか、緊張感と非現実感がある。根本的な謎は解決しないけれど、名残が何もなかった。こういうのも、いいのかも知れない。