2009年4月7日

アルバイト先の近くに青山霊園がある。そこの桜がきれいだと聞いたので、昼休みに行ってみた。満開だった。自分は年々、桜が綺麗だと思うようになっている。でも花見などは苦手、というかしたことがないのだけれど。墓地で写真を何枚か撮った。会社員のひとたちが縁石に腰掛けてお弁当を食べたりしていた。気持ち良いだろうな、と眺めていた。










展覧会3日目。
たくさんの人が来てくれた。初めて会う人、大学の先生、大学の友人と彼女のボーイフレンド、自分も名前を知っている作家の人、千葉の幼なじみ、会社の休みをもらって観に来てくれた人。当たり前だが、展覧会をすると人に会う。そうすると言葉を交わす。絵についての感想だったり、そうでない天気やお互いの近況だったりもする。今日、ふと分かったような気がしたのは、自分は、絵についての感想を言われたことに対して、こんなにもうれしいのではなく(それも確かにすこしあるのだけれど)、その人が伝えようとする自分の絵についてのことを、それに一番ふさわしい言葉を選んで自分に話し掛けている、それがグッとくる。そんな気がしたんだ。


自分の絵について、話せることはあまりない。展覧会場に居るのは無力だとさえ感じるときがある。描いた絵が自分そのままだからだ。そこに言葉とか、いらないと、究極のところそういう考えを持っている。ただ、そうも言っていられないようだ。質問をされれば答えなくてはいけないし。だから自分も、一番ふさわしい言葉を選んで答えるしかない。でもどうしても気持ち悪さみたいなものが残る。何かに引っ掻かれているような。


今日の帰り、駅に着いていつも行くカフェに入ったら、友人と偶然会って、閉店まで話していた。印象深かったのは、「探しているものが見つかったらどう思う。」という質問をされたことだ。最初、落とし物(たとえば眼鏡や財布)のことなのかと思ったが、そうではないらしく大きく言えば人生においてのそれだという。そうして改めて考え直したとき、まずその「探しているもの」については頭の中にすでに答えがあった。ここには書けないけれど、それを友人に話すと「もし、それが手に入ったら、絵を描いていけるかい?」という問いが返ってきた。一瞬間を置いて、「できると思う。」と答えた。



展覧会4日目。
ひとりの女性とたくさん話した。そのひとは誰の話も分け隔てなく聞ける人だった。彼女と、友達になりたいと思った。