2009年6月29日

「tokyo.sora」を久しぶりに見た。夜眠れなくて、ふと、この映画の断片を思い出したのだ(このDVDは何年か前に買って持っている)。深夜、映画を見ている最中も見終わったあとも、初めて見たときと同じような、気持ちになった。普通の風景が特別のように感じられるとき、登場人物たちの素敵な性格、この映画の中で唯一すんなり受け入れられない展開(ユキちゃんの展開の仕方には、いつも違う方法を考えてしまう)。登場人物たちは一様に、淋しさや人恋しさを持ち合わせていて、ただそれとどう向き合っていくかが、当たり前だけれどばらばらで、強いとか弱いとかの次元の話でなく、生きているからそうなる(単純だから複雑になる)というような構造が、物語の外側の自分たちと、極限にまで近い形で映像としてなっている。そう、映画と言うよりは映像と言った方が合っているかも知れない。<br><br>この中で、登場人物それぞれは、全員が明確な形で関係を持たないのだけれど、ほんのすこしずつ、たとえば、同じ電車の中に居合わせたり、同じ道路を時間をずらして歩いていたり、という繋がりがある。これは言わば、自分自身には見えない世界を切り取って(あるいは違う方向から)見ているのだから、ドラマチックに思えるが、実際のところ、自分の世界でもじゅうぶんに起こりうることで、現に起こっていると思う。世界はひとつではなく、いくつか存在しているのだけれど、その、それぞれの摩擦というか、接触の反動に、何か(こうとしか言いようがないこと)を期待せずにはいられない。




2009年6月28日

キング・オブ・ポップと呼ばれた人が亡くなったというニュース。これを聞いたとき、本当に死んだのかな、と思った。本当はまだちゃんと生きているんじゃないかな、と。これは、よくある「誰々は、まだみんなの心の中に生きている」というような、願いともとれるような思考ではなくて、物体(肉体)としての意味でだ。なんか、妙だと思うのだ。どっかでこの騒ぎを見ている気がする。姿をくらまして、生きていこうと決めたのではないだろうか。




2009年6月26日

1 してみたいこと
夜中じゅう、車の運転。海際の道か、高速道路。


2 日記
本当に些細なことで、落ち込む。すこし気分がよくなっては、落ち込む。その繰り返し。天気がいいことにも気づかない。気づけば、夜。




2009年6月25日

アルバイトを休んだ。
眠れずに朝になった。外は不気味な灰色で、どこかに幸福は落ちていないかと、主人公は徘徊する。




2009年6月24日

アルバイトを休んだ。具合が悪い。頭痛が続いている。頭の中はどうなっているのか。どうして頭痛は起こるんだ。それと、体とは別のもうひとつ、人間を形成するもののバランスが悪く、自分でも、どうしたらいいのか。


欲望がなくなったら終わりだ、と言っていたのは誰だったっけ。たしかに。それは、目標とかもそうかな。


誰かと話がしたいと思うと同時に、誰ともはなしたくないという気持ちが出てくる。
自分以外の人も、こんな風に、思ったりするのかな。




2009年6月23日

自分がいま、ここに、こうして、居る理由なんかないのだ。




2009年6月22日

答え


イレーネ   → 江口のりこ




2009年6月21日

問題


クレア    → 上野樹里
テレサ    → 後藤久美子
ラキ     → 井之脇海
ミリア    → 松雪泰子
ヘレン    → 土屋アンナ
デネブ    → 黒木メイサ
オフィーリア → 吹石一恵
ジーン    → 木村佳乃
フローラ   → 湯川潮音
ウンディーネ → 小池栄子
ガラテア   → 桐島かれん
リフル    → 大後寿々花
プリシラ   → 沢尻エリカ
リガルド   → 早乙女太一
イースレイ  → 及川光博
イレーネ   → ?




2009年6月20日

日記1
あの雲が何色でできているか知っている僕に、友達が居ない
可愛い女の子が隣りに立つ僕に、友達が居ない
健康な僕に、友達が居ない
ロスコの生まれ変わりの僕に、友達が居ない
歯並びが悪い僕に、友達が居ない
頭の中で人を殴る僕に、友達が居ない
テレビを見ない僕に、友達が居ない
人見知りの僕に、友達が居ない
雨が降るときが分かる僕に、友達が居ない
足が速い僕に、友達が居ない
動物と話せる僕に、友達が居ない
彼女が恋をしていない僕に、友達が居ない
本を読むのが遅い僕に、友達が居ない
今インスタントラーメンを食べる僕に、友達が居ない
お金がない僕に、友達が居ない
変な声の僕に、友達が居ない
卵焼きが世界一うまい僕に、友達が居ない
哀しくない僕に、友達が居ない
楽しくない僕に、友達が居ない
コーヒーばかり飲む僕に、友達が居ない
部屋を選ぶセンスがない僕に、友達が居ない
日記を書く僕に、友達が居ない
横になる僕に、


日記2
最近は、見るテレビは金曜ロードショー(日本テレビ)か、土曜プレミアム(フジテレビ)か、日曜洋画劇場(テレビ朝日)だけ。今日の土曜プレミアムでやっていた「トランスフォーマー」は、途中から見たのだけれど、何と言うのかな、いちいち騒々しいというか、登場人物たちの声の大きさや話し方が、ひどく不快だった。途中から見た、というのはおそらくあまり関係なく、たとえば最初からあの映画を見ていたとしても、それは変わらないと思う。そして日本語吹き替え版だったことも、関係ない気がする。単に自分の肌に合わなかったということなのだろうけれど、何なんだろう、あの不快感は。あれは映画じゃない。あと、主人公の傍にいた女の子(ヒロインかな)が、何ともよくなかった。笑っている顔も、困った顔も、誘っている顔も、全部同じに見えた。表情がないというか…。


日記3
自分にとって声というのは大切である。自分の声にコンプレックスがあるというのが大きな理由であるけれど、「いい声」の人は、うらやましいというか、自分のものにしたくなる(その声を)。声優で言うと、星野貴紀さんのような低く深いような声もいいし、櫻井孝宏さんのような固く冷たい感じの声もいい。女性だと、麻生久美子さんのような鈴を転がしたように響く声がたまらなくいいです。他にもたくさんいい声の人は居ます。というか、大抵の人は、自分よりいい声。声好きが嵩じて、声を使って、何か作品とかできないかなあと、最近ぼんやり考えています。


日記4
頭が痛いのは気のせいではない。




2009年6月19日

引っ越しをしたいなあと、もう何年も前から思っている。そう思うたびに、「お金がなくてできない。」と思う。でも実際は、お金はどうにかなるものだ。労働すればいいのだから。本当の問題はそうでなくて、自分は、部屋を選ぶセンスというか、そういう感覚的なものが優れていない。それは部屋に限らず(きっと挙げれば切りがないだろう)。実は住みたい町があって、いつか、そこが自分の町になったらいいなあと思うのだけれど。他ならぬ、自分にとっての「良い部屋」を見つけられるのかな。センスないのに(これは大問題なんだ!)。ちなみに今住んでいる部屋は、値段のわりには広い。だから、一部屋を絵を描くための部屋にしている。以前は、絵を描くことを第一と考えていた。それが正しいと思っていたし、かっこいいとも思っていた。でも、ずっと前からここを(町からも)出て行きたいと感じていて、そして今日ふと、別に狭い部屋でもいいから、住みたい所に住みたい、と思った。ただこれは、今日の心境や、最近の気持ちの落ち込みから、そう思っだけなのかも知れないけれど。もし自分が引っ越しをしたら、携帯電話を解約して、「息子のまなざし」でオリヴィエが使っていたような大きくて四角い電話を、部屋に引きたい。




2009年6月18日

起きている間は誰とも話さないのに、夢の中で誰かと話していた。あれはロスコだ。外光がよく入る部屋のなかに居て、ビーチチェアみたいなものに座っていた。何を話していたか憶えていない。楽しく話したり、インタビューのように、質問があって答えがあるというよりは、ぽつり、ぽつりと言葉が聞こえて、自分も何かを言っていた。絵のことじゃなくて、生活のことを話していたような気がする。一緒に暮らしていたのかな。


ただ、これは本当に夢で見たのか、自分の記憶のすり替えみたいなもので作り上げたものなのか(そんな夢なんか見ていないのか)、判断できない。




2009年6月17日

アルバイトの休憩中に、ワタリウム美術館でやっている「アロイーズ展」を見た。ここは、会期中なら、同じチケットで何度でも入られる。一回の休憩では見きれないので、何日かに分けて行くことにしよう。今日は2階を見た。紙の中に、ぎゅうぎゅうと押し込まれたような絵が多い。紙を糸で縫い合わせているようなものもあって、興味深かった。縫い合わせて紙の面積を広くしていたり。アロイーズの絵を見るとき、自分の目が、きょろきょろと、動き回っているのが分かる。絵の上を這っているみたいだ。「マントの中に君を入れる」みたいな題名の絵(タイトルをメモし忘れた)が、よかった。




2009年6月16日

ド・スタールも自殺で、ロスコも自殺だった。彼らがこの世にもう居なくて、一緒に話ができないことが、悲しい。
聞きたいことが、たくさんあった。
ロスコの本を読んでいて、無性に、そう思う。




2009年6月15日

しばらくの間、日記を書いていませんでした。正確に言うと、書く気になれなかった。もっと正確に言うと、前回の日記を書いたとき、もう当分の間書かない(もうできない)と決めたから、あれを書いたわけなのだけれど、それなのに、書きたいことは、ほとんど毎日なにかしらあって、言いたいことや思いついた文章が、頭の中をぐるぐるぐるぐる回っていたのだけれど、いざ、書こうと思うと、それを思ったと同時に、「こんなこと書いてもどうしようもない。」「何にもならない。」という気持ちになって、結局書かなかった。でも今日は、書いている。どうしようもなくても、その、何かしら思うことを記すことは、必要だ。少なくとも、自分には。書きたい、書きたい、と思っていることが分かった。ある人の昔の文章を読んでいて、おもしろそうだったんだ。だから自分も始めたんだけれど。いつしかそれも読まなくなっていて、昨日、久しぶりに読み返したら、やっぱりおもしろかった。


パソコンの画面に打ち出される文字は、自分の文字ではないから(形が違う)、一見、無機質のように思える。でも嫌いじゃない。誰が書いた文章も、同じ形の文字で書かれているのに、そこから受ける雰囲気は同じようにはならないんだよ。それはやはり、言葉の選び方や、言い回しの違いが大きく関係しているのだろうけれど、だからなおさら、違うものを同じ形の文字列で表すから、おもしろいのかも知れない。