2015年5月30日

きっとこれからも何も守れずに、
何も捨てられずに繰り返し続いてゆく。

「街」という名曲はくるりの他に、もう一曲ある。




絵、何枚か描き終えた。
ホームページの作品のページだけ、サーバーの移動に間に合わなくて昔のままになっている。
最近は、それをこつこつ作り直している(全部できあがったら切り替えます)。
それで気がついたのだけれど、2010年の個展の絵だけ抜けている。
その前後何年間か、絵を描くことに後ろ向きになっていた。
友人とも絵の話をしなかった。
何ヶ月か前、久しぶりにその友人と会ったら、「もう絵は描いていないのかと思った。一緒に居ても絵の話をしなかったから。」と言っていた。
意識して、避けていた。
絵に対して後ろ向きだった気持ちがすこし変わったのは、昨年からだった(最近すぎる!)。
その話はまた別の日に。


今日の日記は、上に載せた歌を北の森に住んでいる人へ届けたくて、書いた日記。




2015年5月28日

ホームページを作ったのは大学4年のときだった。

その年の春、知り合いが参加しているグループ展を観に行った。
寂しさと空虚をすりあわせたような世界の中で、でも登場する人物(のような生き物)たちは飄々としていてそんなこと感じさせない、 なんというか、深刻さがない作品を描いている人が居て、目にした瞬間に心を奪われた。
水彩を施した紙を切り抜いて作るコラージュ作品だった。

qpさん。

絵の前から離れがたくてずっと見ていたら、「ホームページあるから、よかったら見てみてください。」と名刺を渡してくれた。
カードに手書きで名前と住所とURLが書かれただけの。

帰ってから見てみると、薄暗い色味の背景に作品が淡々と並んでいた。
どの絵も自分の心のどこかをキュッと掴んで離さない、そんな作品ばかりだった。
qpさんのホームページはシンプルで、作品と同じように深刻さがない。
それがとてもいいな、と、見ていると落ち着いたのを憶えている。

自分もこういう場所を持ちたいな、と思って、その日からホームページを作り始めた。
ソフトを買うと高いから何か他に方法はないのかと調べて、htmlとかいうテキストを書けばいいらしい、とか。
そうやって見よう見まねでこつこつ作っていって、結局半年くらいかかった。
qpさんと同じようにシンプルにしたかったから(というか高度な技術はなかったから)、最低限のページだけ作っていった。

ホームページを作るのは、なんとなく、家を建てるのに似ている、とそのとき思った(建てたことないけど)。
基盤となる部屋があって、そこにいくつか小さな部屋が繋がっていて、ときにはその小さな部屋同士がパラレルワールドみたいに繋がっていたり、する。

とまれ、半年かかって出来上がったホームページ。
参考書を買ったり、学校が終わったあとこつこつ作業したり、今思えば授業を受けるより没頭していたな。
課題そっちのけだったな、と思う。
いよいよネットワークで公開!というところまで辿り着いたときは、完成した歓びと、今まで没頭していたものが手元から離れていく淋しさとが混ざったような不思議な気持ちだった。

それから9年たち、ずっと更新ストップ、放置、という時期もあったけれど、今は細々と更新しています。





qpさんから手書きの名刺をもらった次の年、自分の初めての個展の少し前にqpさんも初個展があって、見に行った。
そのときはすこし雰囲気が変わっていたもののまだコラージュ作品を作っていて、壁に不均等に、故にリズミカルに展示してあった。
その中で、「この絵が自分の部屋にあったらいいな。」と思う一枚があって、人生で初めて、作品を買った。
qpさんは「いくらにしようかな。」と言い、それで、無知だった自分は今思うと恐ろしいくらいの値段で買わせてもらった。

「この作品、『いい。』って言ってくれた人いないよ。」と言っていた。
今も、自分の部屋に飾っている。



qpさんは何年か前からか、日記にはずっと写真を載せている(これはほんの一部。右側のフォルダに色々分類されている)。
どうやったらこんな瞬間撮れるんだろう、というような写真を撮っていたり。
写真でも、qpさんの世界だと分かる。
上の窓の写真はqpさんが撮ったもので、自分がすきな写真のひとつ。

絵も、相変わらずいいです。
意識しているのかしていないのか分からないけれど、のびのびしている。
色が、輝いている。






2015年5月25日

悲しいとか悔しい気持ちを繰り返していくのは、
楽しいとか嬉しい気持ちを眩しくするためかな。

楽しいとか嬉しい気持ちが続けば続く程に、
悲しいとか悔しい気持ちもいつも隣にいるんだな。



新しい僕たちの道は苦しいから、笑おうよ。




2015年5月19日

今夜は音楽の話でもするか。

この前の日記に書いた、滋賀のひとがくれたCDに入っていたバンドはsleepy.abという人たちの歌だった。
もう5年くらい前にもらったのか。
それからも折を見ては思い出し、その曲だけ聴いていた。
初めて聴いたとき、なんだか冷たい空気を吸い込んでいるような感覚になる、寒い景色が似合う歌だなあと思った。
それで調べてみたらメンバーの人たちみんな北海道出身で、今も札幌中心に活動してると知って妙に納得したのを憶えている。




それで最近になって、なんとなく他の歌も聴いてみたいなと思ってCDを買ってみた。
2枚。
「archive」というアルバムに入っている歌が、どれも今の自分に響く歌詞とメロディで苦しいんだけど、それと同時に欲してもいる。
癒される、という言葉は苦手だけど、今の自分はこの人たちの音楽に救われている。

最近は、絵を描くときはsleepy.abばかり聴いている。

あと、ボーカルの成山さんが書いていたコラムが面白い。
とても面白い。
終わってしまったことが悔やまれる(全部面白いけど中でもおすすめなのは第6回、第9回、第10回)。
こういう文章書ける人っていいなあと思う。
この前、人間関係でしんどいときに読んで、声だして笑ってしまった。
自分でもすこし驚いた。
いや、めちゃくちゃへこんで何も考えられないのに、いま笑ってる、と。
なんというか、何でここで躓いてんだ、ってすこしだけ思えた。


くるりは自分にとって、何があっても嫌いにならない、たとえどんなに変な歌を作るようになったとしても嫌いにならないバンドなんだけど、sleepy.abもそういう大切な存在になった。
人生に欠かせない音楽を奏でる人たちになった。

なんでここに書いているのか、冷静になったら意味不明だけど、ありがとう、と感謝している。
いつかライブ観に行きたい。




2015年5月18日

眠れないから、映画の話でもするか。

「ラン・オールナイト」を観た。
裏社会で生きてきた父親と、長いこと疎遠になっている息子の物語。
命を狙われることになってしまった二人の逃走劇。
ありがちな設定ながら、ただの悪者を倒してハッピーエンドの映画になっていなくて、登場人物それぞれの人間関係に焦点を当てて丁寧に描写されていた。
主人公である父親とその息子がメインテーマだけど、この映画には他にも色々な親子関係が出てきて、血の繋がりとは何なのか、家族とは何なのかと、嫌でも考えてしまう。

そもそも主人公が悪側に居るというのが、このストーリーを複雑に面白くしていると思う。
言うなれば人間のクズみたいな男が文字通り命をかけて奔走する。


(悲しいかな、この予告編は映画の緊張感や面白さを表現できていない。)


主人公のリーアム・ニーソンはもちろん文句なしだけど、更にすごいのはエド・ハリスだった。
憎みきれない悪役っぷりが見事だった。「ザ・ロック」で演じたあの役を思い出させるような。

いちばんよかったのは、最後、息子が父親に掛ける言葉だった。
別れの瞬間、「ありがとう」でも「愛してる」でもなく、ただ「父さん」と。
それを聞いた父親に想いを馳せて、つい涙が出てしまった。

これはとてもいい映画だった。
ここしばらくの間で群を抜いて。




2015年5月14日

本当は自分も、お日様のしたを歩くような日々を送りたい。
誰にも言えない恋のようではなく、普通に生きたい。




2015年5月12日

昨日の夜、絵を描いていて、なぜだか涙が出てきました。
自分でもよくわからない感情だったので、どうしたものかと、戸惑いました。
気がつけば流れる思考の行方と、いま描いている暗い夜空の色がどこかリンクし、涙が出たようです。

今日の夜、帰り道、駅のホームから空を見上げると、いま自分が描いている空と同じ色をしていました。
ああ自分は、あの空が何色でできているか知っている。と思いました。



「自分が知っているのは、あの空が何色でできているかということだけです。」



このところ、身体が時間に追いついていません。
だから気持ちが暗くなる。
誰に向かってしゃべっているのか、分かりません。
誰もいないんだけど、ひとりでしゃべってる。
もう長いことずっと、そうしてきました。



何年か前、滋賀でグループ展に参加しました。
半年近く開催していた展覧会でした。
終わってからしばらくして、その展覧会を見たという人が自分に連絡をくれて、しばらくの間文通していました。
自分の絵がすきだ、と。
うれしかったです。
ある日、その人から曲名がまったく分からない音楽を集めたCDが2枚送られてきました。
その中の1曲がとても気に入り、その歌の歌詞から歌っている人たちのことを調べました。
今では大好きなバンドのひとつです。
それでたまに、その人元気にしているかな、と思い出します。
一度も会ったことがないのですが、元気にしているかな、と思い出します。

その滋賀での展示は保坂さんが企画したもので、今となっては夢のようなことだったと思います。
滋賀にはそれ以来行っていません。
保坂さんは、低い声で、流れるように言葉を発する人だなと思いました。
色々がっかりさせてしまいました。




昔のことをよく思い出すのは、気持ちが暗くなっているからです。
それ、分かっている。
支離滅裂な文章を書き続けるのも、そうです。
分かってる。
またすぐ消すかもしれません。
今がちゃんとしてれば、昔のことに構ってられないだろう、と思います。
今が駄目だから、昔の記憶を引っ張りだして、逃げているのかもしれません。

ただ自分は忘れたくない。
自分が忘れられることに怯えるのは、なぜなんだろうとずっと考えているのですが、分かりません。
考えるのも、疲れました。

疲れた。




2015年5月11日

お昼前に部屋に戻ってきた。
普段、明るいうちに部屋に戻ってくることはほとんどないので、こういう日は、目に入るすべての景色が眩しくて、この世界の美しさにすこし目が回る。
空は青く高く、まだ日に焼けていない木々の葉は緑が鮮やかで、建物の屋根や壁までも、光で輝いて見える。
歩きながら空を見上げると、向こうの方に、できてしばらく時間が経った飛行機雲が走っていた。
長く、輪郭がぼやけて波打っていて、龍の骨はこんな感じだろうな、と思った。

この世界の美しさに、目が回る。
日は昇って沈み、風は吹いて、花は咲く。
夜空には月が浮かび、満点の星が毎晩輝く。
重い曇り空や嵐でさえ、本当は美しいものなんだよ。

自然からしてみればなんてことはない、誰のためでもなく、ただ世界は美しく、残酷を繰り返す。

海が、
海がすきだ。
海はいつまでも見ていられた。
波の音はいつまでも聴いていられた。
どこからともなく泣きたい気持ち。


自分が死んだあとも、そういう世界の美しさは繰り返されていくんだろう、と思う。
朝日は眩しく、花は咲き、夕暮れは一日の中でもっとも多く色が移り変わり、夜空には星が輝く。
居なくなったあとも、何も変わらず繰り返していく。
誰のためでもなく、ただそれだけだ。

そういう世界のなかで、生きていた。